わくら屋

和倉稜の掌編・短編小説

さようならスペースワールド(ゲンロンSF創作講座2022第4回課題)

【今、自分が暮らしている都市の物語を書いてください】

というお題でフラッシュフィクションを書きました。

https://school.genron.co.jp/works/sf/2022/students/ryo3wakura/6070/

廃園したスペースワールドという遊園地に忍び込むお話です。

ジョン・スミス(かぐプラ シェアード・ワールド企画 応募作品)

枯木枕さん『となりあう呼吸』シェアード・ワールド企画の応募作です。

最終候補に選んで頂きました。

 

virtualgorillaplus.com

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 崩れゆく身体を機械で保持することで生き永らえる科学者がいた。E.A.ポーを愛読していた。科学者は生来の名を捨て、ジョン・スミスと名乗っていた。

 

「アッシャー邸になるという選択肢もある」

 ある日のことだった。もはや産まれた時の原型をすっかり忘れてしまった私にスミスは告げた。四肢は四のはずだが、私は二本と半分でスミスは七本だった。

「アッシャー邸? よく分からないな。邸になるというのはどういった了見だ?」

 一匹の『黒猫』がスミスの腹の上に飛び乗り、身を丸くした。プルートーと名付けられた『黒猫』は私をじっと見つめた。片眼は初めから存在せずに、なぜかナイフで抉られたような造形をしていた。

「身体を支持できる組織がもう残り僅かだと言うことだよ。邸が嫌ならば君に『ウィリアム・ウィルソン』はいるかい?」

 質問の意図が汲み取れない。私は痛む左腕を擦ろうとしてバランスを崩す。もう一年も前に落ちてしまったというのに未だそこに在るかのように痛みを放つ。ファントムペインは身体の至るところで生じており、私は、私の身体の実在を、現実と幻の境目を、まともに認識出来なくなっていた。

「君にそっくりな人間で、身体は揃っていて美しく、そうだな、踊れるほどの健全な人物がいい。ああ、それに無条件で君に身体の全てを明け渡す心があるとなお良しだ」

 もう世には美しい身体を備えている人物など殆ど残っていない。私は首を横に振る。

「そうか、明け渡す心がないのなら奪うしかない。完全犯罪を成立させる必要がある。『モルグ街の殺人』のように」

 わざと言っているのだろう。私は出来得る限りの言動をもって煩わしさを訴える。

「そもそも、そんな人間がいない。君も知っての通りだよ」

 スミスは満足気に頷く。プルートーはスミスの腹から飛び降りるとフランス窓を長い尾で押し開け外へと出ていった。定期の散歩だ。何のためのプログラムなのかは分からない。プルートーは猫らしく振る舞うことを創造主スミスに強要されている。あと数分もすれば無意味な縄張り争いや繁殖行動に勤しむのだろう。

「そう、いない。いたら二人を練り合わせてしまえばヒト一人に十分な強度を得るはずだ。意識の主導権を握れるかは神でさえ分からないが。でも、いない。だからアッシャー邸になればいい」

 スミスの中で議論が帰結する。スミスの中だけで。私を置き去りにして。

 私はスミスを理解することを諦める。代わりに、スミスの背後に並んでいる書棚の背表紙に視線を這わすことにした。やがて私は一冊の本を取り出して、パラパラと捲った。

「アッシャー邸とは、この『アッシャー家の崩壊』に出てくる邸を指しているんだな。スミス、私には君が冗談を言っているのか本気なのか、何かを暗に示しているのか現実そのものを示しているのか、皆目検討がつかない」

 私は肩を竦めて溜息を吐いた。スミスは蓄えた口髭——人工毛で出来ていて、スミスの出っ張った鼻と薄い上唇の間にびったりと張り付いている——をぴんと指で弾いた。

「もちろん、いつだって大真面目で、君に邸そのものになれば良いと提案している。なんら高次の意図は存在しない。骨の代わりに石を積み、崩れる細胞はセメントで繋ぎ止めればいい」

 耐えられなくなった私は部屋をぐるりと一周した。半分から先が偽物になった左足を引き摺って。このふざけた科学者に拳をぶつければ、私の四肢は残り一本と半分二つになる。

「失礼。私に時間をくれないか? 二十分程でいい」

 スミスはいつだって満足気に頷く。手違いで崩れかけた脳を取り替えたのかもしれない。

 

 二十分を尽くして、私は『アッシャー家の崩壊』を読み終える。顔を上げると、部屋にスミスの姿はなかった。

「スミス! どこにいる?」

 返事はない。耳を澄ます。がちゃがちゃと金属同士がぶつかる音が聞こえた。どすん、ぎぃ。床が軋み、揺れる。どうやら隣の部屋にいるらしい。

「暫くしたら戻る。君があまりに没頭していたから、メンテナンスをね。サボるとすぐに錆びてしまう」

 声帯を取り換えたのかもしれない。まだ馴染んでいないのか、くぐもった声が返ってくる。

 私が『アッシャー家の崩壊』を再び読み終え、プルートーがフランス窓から帰ってきた時、スミスが部屋へ戻ってくる。

「おかえり、プルートー

 擦り寄る隻眼の『黒猫』は生身の猫にでも喉を突かれたのか、びゃあとくぐもった声で鳴いた。スミスとプルートーはとてもよく似ている。

「双子でもドッペルゲンガーでなくともいいんだ。君そっくりのなんらかがあれば。無生物だってよい」

 スミスは私が問う前に知りたいことを答えた。私はこの奇妙な友人に会話の主導権を与えることにし、押し黙った。スミスは私の態度を見て、やはり満足気に頷いた。

「火星にアッシャー邸をそっくりそのまま作るわけじゃない。この地に君だけのアッシャー邸を作ろう。その丸っこい目の形をした窓を二つ。もちろん一つは壊しておこう。屋根に這う蔦は左側を多めにして垂らす。鼻はないから考えなくていいな。開きにくい口を模した玄関は中心線よりやや右に斜めに配置して……」

 ラフスケッチにひどく不安定で今にも崩れそうな邸が描かれていく。今にも崩れそうな私にそっくりだった。

「邸と私を混ぜ合わせることが出来るのか?」

「出来るとも」

 スミスは間髪入れずに答える。

「水と油を混ぜるために石ケンが必要だ。君とアッシャー邸は混ざらない。君のための石ケンを作らなければならない」

「石ケンを作る? それでスミス、君は一体何をしているんだ」

 スミスは右手にコルク抜きに似たT字の器具を握りしめていた。それを左肘にあてがいゆっくりと捻っていく。

「右腕と右足どっちがいい?」

 背中から汗が噴き出る。まともに汗腺がはたらくのは久々のことだった。

 スミスの左前腕の外側半分が外れ、刃が姿を現した。反射する光は鈍く乱雑で、明らかになまくらだった。

「右足にしよう。車椅子を用意する。サイズが合わなくてもよいのなら私の足を一本あげてもいい」

 慌てて手を前に出して、スミスの静止を試みる。

「なんだ、右腕の方がいいのか? 私の手は減らしたくないし、君の食事の世話をしようとは考えていないのだが」

「違う。君はいつも説明が足りない。なぜ私の身体を切り落とすのだ」

 スミスは呆けた表情で立ち尽くし、首を捻る。三本の手を使ってぼりぼりと頭を掻く。プルートーの開けた窓から入り込んだ風にフケの一部が舞って私の袖口に付着する。私は顔をしかめて振り払う。

「石ケンは両親媒性物質、水と油の両方の性質を持つ。二つの物質の境界面に配向することであたかも混ざったように振る舞うのだ。同じだよ。君と邸の中間物質を作る。いいか?」

 プルートーがゴロゴロと喉を鳴らした。何もよくはなかった。何も理解出来なかった。しかし、この崩れ行く身体にも好奇心がひと欠片ほど残っていたらしい。どうせいつかは落ちる足の一本程度なら眼前の変人に差し出してよいと思えた。

「好きに使ってくれ」

 スミスはなまくらを私の右足の付け根に添えると、ぐっと体重をかける。切れるというよりかは圧に耐えきれず潰れながら右足は私の身体から離れていった。神経は弱りきっており、痛みはそれほど感じなかった。

「今日だけは新鮮だ」

 スミスは私の肉の端を千切ると団子状に丸め、プルートーに差し出した。プルートーは団子を嗅ぐとぷいとそっぽを向く。

「私と違ってプルートーは君のことをあまり好いてはいないようだ。まあ明日からは大丈夫だろう」

 スミスは私の足だったものを傍の機械へと放る。次いで私の足の付根の不均一な断面を平たいコテで焼いて潰した。

「せっかくの生肉が余ってしまったな。食べるか?」

「足が生えてくるなら喜んで食べるけどね」

 スミスはにんまりと笑みを浮かべると、温度の下がったコテに私の肉を置き、焼いた。適度に熱が入ったところで摘み上げると、口に含みたっぷりと時間をかけて噛み、飲んだ。

「柔らかすぎて美味いものでは決してないな。まあ捨てるには勿体ない」

 スミスは口の端についた汚れ――私だったものの成れの果て――を親指で拭い取りぺろりと舐めた。

 

 翌日からプルートーは私の肉を食べ続けた。水分を飛ばし細かく切り刻まれた私の肉はプルートーの餌に混ぜられた。

「そもそも、なぜプルートーが食事を摂るのだ?」

「愚かな質問だ。生身の猫も君も食事を摂る。半分機械と化した私も摂る。ならばプルートーも摂る。アッシャー邸になったとしても食事は摂り給えよ」

 プルートーは毎日せっせと私の肉を食べた。私には時間があった。スミスの本棚から『黒猫』を引き抜いて読んだ。

 プルートーの排泄頻度が下がり、体積を増やしていった。無生物のプルートーは私だったものを一心に体内に蓄えていく。『黒猫』を元の位置に差す。プルートーが私とアッシャー邸を繋ぐ石ケンと成るのだ。

 ふいの愛おしさからプルートーの顎の下に手を差し込む。ぼとり。視線を落とすと指が落ちていた。手をプルートーから離す。小指が削れていた。プルートーの爪に肉片が詰まっていた。

「まったくもって嫌われたものだな」

 炙った私の小指をしゃぶりながらスミスは言う。落ちた瞬間の痛みはなかったが、指があったはずの空間に痛みが生じている。まったくもって不思議な感覚だ。

「私の身体はあと一年も持たないかもしれない」

 足を切り離して三ヶ月が経っていた。小指以外も遠くない未来に失われていくだろう。スミスはたった一人で七本の四肢を使い分け、私にそっくりなアッシャー邸のおおよそを造り終えていた。

「明日だ」

 スミスは告げた。

 

 私の口を模した玄関の傍に『落とし穴と振り子』の部屋があった。

「本当は二部屋に分けたかったが仕方がない」

 壁一面が真っ白で窓のない部屋だった。部屋の中央に、足があった頃の私の身長でも直径にわずか足りない程度の穴があった。深い縦穴のようだった。天井から太い金属製のロープが垂れ、穴の中へと落ちていた。

 入口から正面を向いてロープは規則的に左右に揺れている。ぎい。ぎい。ぎい。何か重たいものを揺らしていた。私は車椅子の車輪を穴の淵まで寄せ、中を覗いた。

「落ちてくれるな」

 びくりと背が跳ねる。

「急に声を掛けないでくれ。落ちてしまう」

 振り返ると三本の腕でバランスよくプルートーを抱えるスミスがいた。

「穴の底すれすれを巨大な鎌が揺れているんだ」

 突然、スミスがプルートーを穴に放った。プルートーは「びゃ」っと声を発し落ちていった。唯一の瞳は私を睨んで離さなかった。

 しばらくするとプルートーの断末魔が届き、静寂が訪れる。呆気に取られていると、いつの間にかスミスが私のすぐ傍に立っていた。私も落ちるのだ。車椅子がふわりと浮く。目を閉じる。

 しかしスミスは私を穴から遠ざけ、入り口から最も離れた壁へと押し進めた。

「ここに手を」

 指示された場所には複数の短い棘が壁から突き出していた。指示通りに棘に掌を押し当てる。弛い肉にずぶずぶと棘が侵食してくる。

「やけに嫌っていたとは思ったが」

 棘は肉を吸ったようだった。棘から伸び出たチューブの先でスミスは首を振る。

「失敗したのか?」

「片眼であることが功を奏したのか、アッシャー邸とプルートーの定着は上手くいった。しかし君とプルートーをつなぐ媒介が更に必要になった」

「そんなものは……」

 目を見開いた。スミスが黙って自身の手を見つめていたのだ。

「スミス、君は……」

 なぜ私の肉を食らっていたのか?

「二日後だ。明日、君は部屋から出てはいけない。二日経ったらこの穴に身を投げてくれ」

 私に追求は出来なかった。

 二日後、想定通りスミスの姿はなかった。私はたった一人でアッシャー邸に向かい、穴へ身を投げた。穴の底で切り刻まれた身体がアッシャー邸へと溶け込んでいく。気がつくと、私はアッシャー邸になっていた。

 アッシャー邸は快適だった。蔦を伸ばせる範囲は決まっており自由に動くことは叶わない。しかし身体が崩れることに恐怖を抱く必要もない。食事は雨と陽光と、時折穴に落ちた生き物を溶かすだけでよかった。

 アッシャー邸になったことに後悔はなかった。たった一つを除いて。

 

 意識が薄れゆく。眠る時間だ。

 まさか、意識の主導権をスミスに明け渡すことになるとは思いもよらなかった。私は一日の内、およそ一割しか起きていない。

 共有する記憶によると、スミスは今アッシャー邸に足を生やそうとしている。

(了)

ぶんげいふぁいとくらぶ(BFC3幻の2回戦作)

 喜びよりも後悔を強く感じさせる結果だった。

 佐倉さんの評は多様な切り口でわたしの未熟さを指摘し、それでいて少しのお褒めの言葉とともに高い点が添えられていた。

 佐倉さんとはSNSで交流を初めてまだそれほど経っていない。以前、彼の言葉に惚れ込んでから、どうしてもわたしの文章を読んでもらいたかった。

 辛辣さと愛が共存している。噛みしめる様に、何度も何度も読んだ。心地良い苦みだった。第三回にして、初めてぶんげいふぁいとくらぶに参加した。良かった。心から思う。

 佐倉さんだけではない。ジョウダンさんのユーモアに溢れた評も、紅明さんの過去作から体系だった評も見事なものだった。ありがたい。一回戦に関わったすべての人々が久方の祭りを楽しんでいる。

 混乱した感情を落ち着かせようと、買ったばかりのコーヒーメーカーにポーションとマグカップをセットする。

 お湯を吸い上げる振動音に紛れるように、スマートフォンが通知を告げた。ポップアップに表示された名をみて目を見開く。慌ててスマートフォンを握りしめ、ソファへ飛び込む。

『直接メッセージを差し上げるのは初めてですね。二回戦進出おめでとう。どうしても伝えたくて』

 彼は忙しい。時間を割いてダイレクトメッセージを寄越したのだ。返信に熱が入る。

『ご評価いただきありがとうございます。佐倉さんからの叱咤激励、身にしみています。評でのご指摘の視点についてですが――』

 つらつらと書いたメッセージを眺める。言い訳めいて長い。ため息を吐く。感謝の言葉だけを残して送る。時間を置かずに返事があった。

『栗人さんと違って、僕は一回戦で敗退した。次からはいち読者として大会を楽しむつもりだ』

 ジャッジと呼ばれる選者もまた作者から評価され、次戦への進退が決まる。初めてルールを読んだ際は驚いた。作者も選者も互いに評され晒される。この文芸を起点とした殴り合い、まさにファイトクラブの様相こそが最大の魅力だと言える。

 公式の場以外でも、場外乱闘と呼ぶ応酬がSNS上で繰り広げられていた。勝手がわからず、怯え、外から眺めている。二回戦に挑む者として参戦したほうが良いのだろうか? わたしは作者側に近い読み方をしていて、フォローすべきだという気持ちに駆られていた。

『放っておいて大丈夫。前回も似たようなことがあったから。それよりも栗人さんは自分の事を考えて。他のジャッジの評を読み込んで自分には何が足りないのか把握しておいた方がいい』

 両頬を張る。じんとした痛みが顔いっぱいに広がる。わたしは未熟なのだ。佐倉さんはわたしをそう評したではないか。何度も見返したではないか。

『すみません。いや、ありがとうございます。二回戦開始まであまり時間がないですもんね。ジャッジ全員の評、読みます。決勝にいきたいんで』

 初参加で青いわたしを佐倉さんはどう受け取っているだろうか。笑うだろうか、呆れてるだろうか。出来ればこの短いやり取りだけで失望しないで欲しいと願う。

 彼は前回のぶんげいふぁいとくらぶにファイターとして参加していた。耽美な文章に目を奪われている間に、構成の妙な迷路に迷い込む。何を読まされたのか分からない。でもいつまでも忘れない。惚れ込んだ。わたしが小説を読むときの傍らにはいつも佐倉さんの作品が浮かぶ。

『頑張ります』

 連続したメッセージを催促と思われたかも、と後悔した。既読はつかない。彼は忙しい。わたしは? 不甲斐なさに後悔してばかりだ。

 冷めたコーヒーを片手にコンピュータを起動させる。ぶんげいふぁいとくらぶのファイターとジャッジのコメントは明日の通勤の往復で読む。書ける時間は書くことに費やそう。数少ない公募が二つ、偶然にも近い締切であった。両方出そう。

 参考文献となる専門書や小説の山を切り崩しながら、一度読んだ時に貼った付箋を頼りに文章を綴る。取りこぼす事がないように焦らず書こう。

 先達らが積み上げてきた表現や技法の数々、新しい小説が狙うべき領域。新しい海は広大で羅針盤がいる。佐倉さんの作品こそが相応しい。書く、書く、書く……。

 頬を押し返す柔らかな痛みに目を覚ます。机に突っ伏していた。デスクライトは記憶のないうちに消している。冬は近くに迫ってきて、ブランケットではもう肌寒い。暗闇に、通知を告げる緑色の光が強弱を繰り返し点っていた。佐倉さんだ。

 

二回戦のジャッジ頑張って、、、、、、、、、、、、。応援してる』

 

 スマートフォンを胸元に引き寄せる。姿勢を正し、佐倉さんがいる東京方面に向けてお辞儀をする。

 ジャッジのジャッジ、佐倉さんはわたしのジャッジ評に関して多くの文を費やし評価くださった。

 一回戦で惜敗したとはいえ、彼の実験的な小説に感銘を受けた読者や識者は多いだろう。きっとこれから注目される。いや、させる。

 機はすぐに訪れる。評するのは書評家として立つ私でありたい。

 

(了)

ハロー・ミステリー(BFC3応募作品)

 落ちていた遼のボクサーパンツ、ライトグリーンのクッション、タオルケット、目についた柔らかいものを片っ端から投げつける。受け止めた遼は両手を一杯にする。

「まあまあ七瀬さん、ちょっと落ち着きな」

 落ち着いてられるか。私が初めて主催するミステリー読書会だった。ある一人の参加者によって失敗に終わった。鼻に皺を寄せる。

 ミステリー初心者には叙述トリックで驚いて貰おう、その考えが仇となった。次に読むおすすめ本のリストをみるや、ネタバレありで自慢気に知識を披露された。多くの参加者は普段ミステリーを読まない人たちで、唖然としていた。次は参加しないだろう。

 高齢の彼からしたら、俗に言う女・子供に場を仕切られるのは不満で、自己顕示欲に駆られたのだろう。とはいえ私も三十代だ。

 恋人の遼が苦笑いを浮かべている。忙しい間に手伝ってもらったのに申し訳ない。

「せめてものお礼に」

 アヒージョの小エビを遼の皿に乗せる。

「卑しすぎ。お礼なら七瀬さんが作った美容液がいいかな」

 遼は手のひらを頬に当てる。男性がスキンケアをすることさえ珍しくなくなった。ずぼらで肌の荒れていた遼に、美容液の試作見本を投げつけたのが先週、そこから毎日肌の調子を報告してくるのでうざったい。

「んー、担当した美容液が発売になったから社販で買ってくる」

 処方開発は嫌いじゃない。シーズン毎の新商品開発こそあれど、数年でトレンドが戻る繰り返しの日々。抜け出すには昇格試験を経てマネジメントに専念すればよい。開発部の近しい世代の半分はそうしたし、もう半分は他部署への異動や転職で開発から離れた。

 居場所を探していた。しかし仕事には意義を見出せないまま過ごしていた。

 三十代のヒラ開発者に周囲の目は厳しい。遼と結婚して環境を変えようかと思ったが、それも逃げの様で嫌悪感が募る。仕事で活躍している遼に負担を掛けたくはなかった。

 読書会を主催するきっかけは些細な出来事からだった。半年前に後輩の笹原と外出した際、ホームで次の電車を待っていた。

「最近、読書を始めて。これ知ってます?」

 スマートフォンに読書記録アプリが映る。電車がホームへ滑り込む。

「読んだ冊数が増えると、次も読みたくなるんですよ。あっ、すみません。女性専用車両だ。隣の車両に移動しましょう」

 揺れる電車の中でアプリをインストールした。学生時代、通学電車の中で小説を読んでいた日々を思い返す。

 一つだけ空いた座席に笹原を座らせる。最初笹原は戸惑ったが、年寄り扱いしないで欲しいと首を振った。そわそわする笠原の小さな頭を見下ろしながら、遼なら遠慮なく座るだろうなと、ふと笑みがこぼれた。

「健康のため。若いんだから座っときな」

 次の休日、大型書店に足を運んだ。アプリに読めと促された気がした。久々に訪れる小説エリアは華やかに彩られていた。

「出版点数を増やしてるし、買い支えてるのは二、三十代の女性なんだよ。恋愛ものやライトミステリーが多い」

 文庫棚を前に遼の言葉が蘇る。遼はビジネス書を買いによく本屋へ赴く。平積みにされた恋愛小説を手に取る。学生時代はよく読んだが、今にして魅了される気はしなかった。 

 はたと記憶が再生される。作者名と題名から女性作家の恋愛ものだと思った小説が実はミステリーで仕掛けに驚愕したことがある。

 フェア台でオールタイムベストと銘打たれたミステリー小説を取り、レジへ向かう。

「おっ、新本格

 シートマスクを顔に貼り付けた遼が目を輝かせる。最近、洗面台には遼の化粧品がますます増えている。メーク品まで揃ってきた。

「懐かしい。大学の時によく読んだよ」

「なに? その新本格って?」

 遼はミステリーの歴史を喜々と語る。化粧気のある遼も様になっているが、理知的に語る姿は懐かしい。出会いは塾講師のアルバイトの時、二つ年上の私相手に遼はちゃんと敬語で、今の様な小生意気な態度はなかった。

 遼が寝息を立てている。デスクライトを小さく点し、本を読み始める。おや? 捲る手が止まらない。気づくと明け方で興奮のままに揺り起こした遼は不機嫌だった。十年近い仕事を経て論理的な構造を好むようになったのだろうか? ミステリーは面白い。

 貪るように読んだ。知識が蓄積すると話したくなるのは人間の性だが、職場には語る相手がいない。いつしか遼が過去に読んだよりも多くのミステリーに触れていた。

「これ、行ってみなよ」

 ある日、遼がディスプレイを見せてきた。ミステリー読書会と記されている。課題本の感想を話す二時間で、ネタバレありで語り合う時間を過ごした。幸せだった。

 だから自分で主催することにした。遅くにやってきた青春、初回は失敗。だが青春に失敗はつきものだ。私のようにミステリー初心者がミステリーを好きになる読書会を作りたい。私は節くれだった手を握る。

 ベッド傍に落ちたブラジャーを見つける。

「遼、下着を脱ぎっぱなしにしないって何度も言っただろう」

 へーい、とやる気のない返事で遼は自身のブラジャーを拾いあげる。

「七瀬さんだって、わたしの下着を拝めて嬉しいくせに」

 そろそろ苗字じゃなくて名前で呼んで欲しいが、癖が抜けないらしい。女子高生時代の遼の姿が浮かぶ。

 いつまでも先生じゃないんだから、、、、、、、、、、、、、、、

 ミステリー初心者には叙述トリック、さて二回目の読書会のテーマは何にしようか。

 

(了)

プロピオニバクテリウム・アクネス(イグBFC2 参加作品)

 アクネ菌が話しかけてきた。

 卒論に向けた追い込み実験を終え、帰宅した寒い深夜のことだ。ボロアパートの壁は薄く、隣人は何ら特徴のない男だった。その男の部屋から艶かしい女の声が響いてきた。自分と身なりの変わらない隣人に恋人がいるなんて勘弁して欲しい。

 湧き上がる怒りと性欲は別物で、耳を壁に押し当てた。興奮した。昔からニキビが酷く、赤く腫れ上がった頬が黄ばんだクロスと擦れて痛い。

 ぶちっ。

 化膿していた場所が潰れた。クロスに血の点が付いていた。少し経つと傷口が痒くなる。掻くと膿が爪に付いた。痒い。異様な痒さだ。そっと触れる。妙に長い角栓が取れた。まだ痒い。洗面台の鏡を見る。

 傷穴から黄色い何かがにゅるりと湧いている。拭っても止まらない。夢だ。部屋へ戻り再び壁に耳を押し当てると、二人同時に果てる声が届いた。興奮しつつ悲しみの涙に濡れる。現実なのだと実感する。ならば奇病を患った?

「琢磨もニキビさえなければ彼女が出来るのにな。あ、俺のせいか。ひゃひゃひゃ」

 次は幻聴だ。視線の下で何かが揺れた気がした。目線をぐっと下に寄せる。どうやら角栓の紐は集まって直径3センチ程の球になっているらしい。

「おい琢磨」

 また幻聴。再び鏡へ向かう。やはり夢だ。球には目のような窪みが二つ、その下に口らしきものもあり上下に開閉している。

 指から紐が出て具現化する能力こそ格好良いが、毛穴から角栓が出るなんて夢にも思わなかった。いや、夢か。とにかく不快である。ニキビのせいで友人一人さえいないのに、唯一の語り相手として角栓が具現化するかね。球を摘み引っ張る。

「いてぇ、いてぇって。止めろ琢磨」

 恋人たちは愛を囁いているだろうか。痛いと連呼する球の声は一向に止まない。現実なのか?

「お前は一体?」

「水くせぇぞ琢磨。俺だよ俺、プロピオニバクテリウム・アクネスだよ」

「知らん」

「かーっ、勉強しとけ。アクネ菌だろ。お前の、汚い、肌のげんい――ぎゃあ」

 ちぎれた。もしかして菌を見る才能が種麹屋の跡継ぎでもないのにあるのか?

 

 生物系の研究室に入れないか考える内に三日が過ぎた。あの日以来菌が見えることはない。

「ひどいじゃないか。増えるのに結構かかるんだぜ」

 復活した。一個体ではなく集合体が一匹に見えているらしい。能力が戻った。他の菌が見えないか周囲を見渡すが、アクネ菌の化身しか見えない。

「そりゃ琢磨の能力じゃなくて俺の能力で見えてるからな」

 寄生生物系か。宇宙から来いよ。毛穴から発生してくれるな。

「目的はなんだ? 契約して魔法少女になればいいのか?」

「琢磨、話したのは三日前からだが長い付き合いだろ? アクーと呼んでくれ」

「寄生部位に由来するならカオーとかの方が原作に忠実じゃないか? 設定がわからん。なんで俺と知識レベルが同じなんだ?」

「琢磨の皮脂と剥離した角層に宿ってるからな」

「排出物に宿るな。脳から知識を得てくれ」

 70%エタノールを吹きかけると、断末魔をあげて溶けていく。意外にも効くんだな。

 

「で、俺の目的なんだが」

 三日後、アクーは復活する。表在化した部分を殺したところで、毛穴の奥深くにいるアクーが力を蓄えるとまた現れる。

「魔族みたいだな。友達はいないのか?」

「他の菌は駆逐した。ここは広々快適空間だ」

 理解した。アクーは強大な力を得たアクネ菌だ。肌細胞の免疫応答は凄まじいものだろう。炎症性サイトカインや角化因子は分泌され続け、激しい炎症と皮膚ターンオーバー異常が起こる。汚い肌も当然だ。

「アクー、お前だったのか」

 銀系抗菌剤をアクーに振りかける。

「俺は滅びぬ、何度でも蘇るさ」

 肌表面で切り離された残骸が床に落ち、転がる。

 

「他の菌を駆逐したはいいが、寂しかったんだろうな。琢磨と同じぼっちさ」

 アクーはひょこひょこと毛穴から出入りしている。先日、火を近づけた時に発覚したのだが、毛穴の内側に体全体を潜り込ませることが出来るらしい。

「見えている部分は体の半分くらいか。出し入れは自由」

「じゃあ毛穴中の荷物をまとめて出ていってくれ」

「馬鹿か。飯がないと死んじまう」

「ん? 俺よりも魅力的な餌場さえあれば出ていってくれるのか?」

 何かを得るためには同等の対価が必要だ。研究者人生を犠牲に、アクーを追い出す。

 

 うちの研究室で取り組むテーマじゃない、と言う教授を押し切った。修士で追い出すつもりだっただろうし、最後は憐憫の情を持って肌を見つめてきた。

 謝礼をたっぷり用意し、老若男女の角栓を世界中から集めた。研究用に接着性を強めた毛穴シートにびっしり角栓が並ぶ。ピンセットで摘んではマイクロスコープで形状を撮影し、その後、溶媒に溶かして成分分析を行う。余った角栓は持ち帰りアクーに与える。アクーは咀嚼すると大概を吐き出した。

 修士を出る頃には高IF雑誌に論文が掲載された。菌の声が聴こえるので当然だ。しかし本人の肌が最も荒れている。魔王を封印された赤法師の様だ。

 灯台下暗し。ようやく見つけた最高の餌場は隣に住む男だった。アクーは恍惚の表情で角栓を食べている。

「世話になった。俺を奴の家へ送り込んでくれ」

 隣人は酒を持っていくと明るく迎え入れてくれた。隙を見てアクーは頬からぽとりと落ちる。

「じゃあな。お前との生活も悪くなかった。おい、おいって」

 もうこちらを見ていない。酔いつぶれた男のどの毛穴に入ろうか選別している。現金な奴。菌なら生存最優先なのは仕方ないが。

 

 二日後、壁伝いに悲鳴が響いた。面倒な奴を押し付けてすまない。彼女とは別れるかもしれない。すまない。ざまあみろ。

 自身の肌がきれいになるのか、期待で胸が膨らむ。もうアクネ菌研究をしなくてよい。

 

 翌日、囁き声が聴こえた。

「おつかれさん。またよろし――ぐきゃあ」

 過酸化ベンゾイルを擦り込む。一個体じゃないならこっちでも増えようとするわな。駄目だこいつら侵略者だ。駆逐してやる。この世から一匹残らず。

 

(了)

脱落した女(クリエイターズマッチングプロジェクト 応募作品)

下記リンクからお読みくださいませ。

和倉稜と書かれた右のストーリーボタンをクリックすると表示されます。

sdr-cmp.com

 

絵と歌と物語を繋いでいくって面白い取り組みですね。

ストーリーを一度クリックすると対応する楽曲や歌詞、歌のみが表示されるようになっております。

そちらも聴いてみてくださいね。

 

 

パパ見ぬ世界(第2回かぐやSFコンテスト 応募作品)

 パパ、大好きだよ。

「世界に選ばれたかった」

 パパの口癖だった。喜々と語るパパのクロスモーダル研究の話は独創的で、魅力的だった。選ばれた優秀な存在に違いない。何度も伝えたが、その度に首を横に振られた。手のひらが頭の上にそっと置かれる。ながい指が髪をとかす。

「だからクロがいる。お父さんは人類がまだ見たことのない白を見てみたい。クロに助けて貰いたい」

 パパの手を取り、胸元に引き寄せる。しっとりとして柔らかい。きっかけは雪国の住民たちへのインタビューだったらしい。彼らにはたくさんの白が見えていた。ふかふかの白、硬い白、温かい白、鈍い白、パパは羨ましげに語る。

 わたしは造られた。ママはいない。強いて言うなら育ての母は試験管と保育器、産みの母はパパになる。パパは自分の体細胞から擬似卵子を造った。

 ママが居なくても平気。パパが見たい世界を実現する。わたしの生きがいだ。わたしはパパで、パパはわたしだ。

 

 寝室にアラームが響く。赤い高音が部屋中を駆け巡る。朱い肌触りとピンクの重さを持ったブランケットを寝ぼけまなこで引き剥がす。

 インコがアラームの声真似をする。見事にコピーされた赤い鳴き声。先週から飼い始めた。取っ手を回し部屋を出る。橙の丸み。三日前に取り替えた。

 ダイニングに立ち込めるトーストの香りに違和感を覚える。青い。耳をすませば緑が届く。フライパン上で油が跳ねる音色だった。

「パパったら! 今は赤色を集めてるのは知ってるでしょう? そっちは緑で、こっちは青だよ」

「ん、そうなのか? フライパンは赤いのを買ったんだけど」

 黄緑のリズムでパパは話す。

「パパの見える赤だけじゃないの。何度も説明したでしょう? 全部クロに任せてくれていいから」

 パパをギュッと抱きしめる。麻のシャツに頭を沈める。ザラザラとえんじ色のさわり心地がする。

 音にも、香りにも、柔らかさにも、美味しさにも色は潜んでいる。潜む色を感知する力を人類は生まれながらに持っている。しかし成長とともに要らないものとして捨てられる。結びついていたはずの神経回路は刈り込まれる。

 パパはわたしの視神経が他の五感を司る神経系から遮断されるのを防いだ。ダイニングテーブルに視線を落とす。使い古された茶の木目は美しい。仄かに立つウッディな香りは赤紫を呈している――偶然にも赤軸の香りだったので、しまい込まずに済んだ――。

 xy平面にz軸が加わる様に、世界は豊かな表情を見せてくる。テーブルに手を乗せる。柔らかい感触が返ってくる。爪で弾くと乾いた音が立つ。全てに色がある。わたしは色彩の迷路の真ん中に居る。

 迷路を抱え込むには脳の容量が足りないようだった。わたしには喜怒哀楽の【怒】と【哀】、おおよそネガティブ感情と呼ばれる感情群を失くしてしまった。

 周囲の人はわたしを僅かに恐れている。買い物の時など、わたしの反応をみて変な顔をされるから。少しだけ笑顔を控え目にするといい。ちょっと面倒くさいけど、豊かな世界を生きるためのささやかな代償。

「パパにはクロよりもっとすごい世界を見せてあげるからね」

 わたしには解法がたくさんあった。だからか同年代の子たちよりは賢いとされた。それでもようやくパパの研究に誘ってもらえたのは一ヶ月前の十三歳の誕生日だった。両手を上げ、跳ね、走り回った。いかにも子供らしい反応だった。思い出すたびに顔が火照る。

 これでパパの夢の一端を担える。わたしが見ている世界をパパにインストールするのだ。

 

 やがて迎えた十四歳の誕生日。わたしの赤をパパへ送る日。今日までたくさんの赤データを集めてきた。

「パパ、準備はいい?」

 パパは返事をしない。麻酔が効いてるから当然だ。わたしたちは隣り合ったベッドに横たわっている。枕の代わりにふたりの後頭部には無機質な筐体、この枕型デバイスを通じてパパの後頭葉にわたしの赤データをコピーして送り込む。

 びくん、とパパが跳ねる。ずきん、と頭が痛む。こみかみを揉む。連結し合った脳全体でカバーしているとはいえ、倍量の赤データは負担が大きい。

 これから一週間、パパに赤い生活を堪能してもらったら、次は青い生活だ。お気に入りのダイニングテーブルはいったん納屋に片付けよう。

 

 十五歳の誕生日を迎える。この一年、パパはよく眼鏡を外して鼻頭を揉んでいた。わたしにとって生まれつきでも、パパははるか昔に要らないものとして捨てたのだ。獲得した世界を新しく学び、順応しなければならない。大変なことだろう。

「クロはこんな素晴らしい世界を見ていたんだな。赤一つとっても世界は豊かだ」

 両腕を広げるパパに飛び込む。ぼふ、と互いのコットンが擦れる紺の音がする。水色の香りの紅茶がパパの喉を抜けていく。しばらくパパの口から水色が漏れていた。

「クロ、散歩に行かないか?」

 パパの左腕を抱きしめる。部屋は青で満たされている。パパは赤が見たいのだ。青の部屋では物足りないのだろう。かわいい。言うと拗ねるから止めておく。

 赤だけ――わたしの三分の一だけ――の共有だったけれど、パパと世界を共有できて幸せだった。森を行く。木々の光合成も、動物たちの呼吸も、生命の多様性が織り成す色彩は眩しいほどだった。きっとパパは素晴らしい世界を見ることが出来る。

 青データをコピーする。予め鎮痛剤を投与しておいた。もうひとつ作業をする。赤に関する視神経と他の回路の繋がりを切り離す。二年間のデータ収集で刈り込みに関する知見が増える中、神経系の繋がりを断つ方法を発見した。

 パパには内緒にしておこう。きっとわたしと同じ世界を共有したいはずだ。ふとした間が生じる。このぼんやりとした感覚が寂しさなのかもしれない。でもパパと同じものを見る必要はない。パパのためにわたしはわたしに出来ることをやる。

 鏡に黒いチョーカーが映る。十五歳のお祝いにパパが買ってくれた。嬉しい。いつかお返しをしなきゃいけない。忘れずに記憶に刻み込む。

 青の世界を獲得したパパは恍惚の顔で青の部屋を見ていた。細い癖毛の間に手を差し込み、掻いている。

「クロ。人はなんて愚かなんだろうね。こんなにも豊かな世界を刈り取るだなんて」

 パパの口元をハンカチで拭う。モスグリーンの涎で湿る。微笑み返すとパパは涙を流した。親指で涙を拭ってあげた。

青のコピーデータを消す。合わせて青に関連する視神経と他の繋がりを切り離しておいた。パパはわたしの眼を得て世界を更新する。わたしも見倣って新しい世界に身を置かなくてはいけない。これから緑の一年が始まる。

 

 一年間、パパは絵を描き続けた。時に取り乱し、時に歓喜に舞い踊った。パパが感じている厚みのある赤や青は、わたしが手放した代物だ。パパの絵の色彩に、直接的な理解は及ばなかった。

 それでも、パパが満足気にわたしに見せてくれる作品たちが持つ圧に懐かしさと好ましさを抱かずにはいられなかった。

 シスレーの様な柔らかな充実感、セザンヌの様な力強い立体感を感じさせる。決して線や構図でそれらを演出していなかった。わたしの眼に捉えることのできない色で印象は強化されていたのだろう。偉大なる画家たちは世界の深淵をほんの少しだけ覗いていたのかもしれない。

 一つだけ足りないとしたら緑色だ。パパは緑色の世界を描くことが出来なかった。パパに渡していない最後の領域だった。

 あと三日でわたしは十六歳になる。わたしの眼の全てをパパに譲る日。一年間、慣れ親しんだ緑色の部屋。パパがわたしを呼ぶ声が聴こえる。パパはもちろん自覚していなかったけれど、最初からパパは緑の声を持っていた。最後まで緑を残したのは、パパの機微を感じ取る能力を捨てたくなかったのかもしれない。

 緑データをコピーする。

 

 十六歳になった。わたしは普通の女の子に成り果てた。木製のダイニングテーブル、囁く鳥、太陽光、隣家の人々と同じ感覚でそれらを見ている。

 ご近所迷惑にならないように、窓をそっと閉める。騒音問題はコミュニケーションの上で最も繊細な課題らしい。室内に声が響く。

 役目を終えた枕型デバイスをそっと持ち上げる。思い切り床に叩きつける。バラバラに撒かれた蛋白質様プラスチックの破片の中、白いチップを拾い上げる。デバイスに保存されていた以外の色彩データは全て破棄した。わたしが見ていた世界は、眼前の桜の花びらみたいなチップにのみ蓄えられている。

 へし折る。いとも簡単にわたしの世界だったデータ群は失われた。もはや知覚出来ないデータを収集することは難しいだろう。パパの眼をじっと見る。データ収集できる眼、しかし為されることはないだろう。

「どうパパ? 嬉しい? パパの夢だったまだ誰も見たことのない白だよ。多分わたしたちが生きている間は誰もたどり着けないよ」

 パパは呻き声を上げて喜んでいる。涎を拭う。人間ひとりの脳では容量が足りない。だから壊れたんだろう。既に刈り込みの終わった人間の視神経と後頭葉だけでは明らかに耐えられない。

 それが正解だ。わたしの見る赤と緑と青――超高解像度RGB――を、純粋な視神経のみで処理することで誰も見たことがない白になる。

「春には卒業するし、働けるから。パパのお世話はクロがしてあげるね」

 パパの腕に麻酔薬を打ち込む。真っ白な枕と掛け布団は今日のために選び抜いた一品だ。

「パパ、おやすみなさい」

 わたしは首から黒いチョーカーを外す。木箱を開けチョーカーを入れ替える。取り出した白いチョーカーはパパにとっても似合っていた。

 パパにむりやり繋げられた視神経の繋がりを全て切り離して生成された感情、いや隠れていた感情を理解した。わたしの心はずっと怒りに満ちていた。

「なに、笑ってるの?」

 パパに問う。鏡に映るわたし自身への問いでもあった。わたしは窓を開けた。木々が揺れている。色に変換されない鳥の声は純粋で美しかった。

 パパ、大好きだよ。