わくら屋

和倉稜の掌編・短編小説

パパ見ぬ世界(第2回かぐやSFコンテスト 応募作品)

 パパ、大好きだよ。

「世界に選ばれたかった」

 パパの口癖だった。喜々と語るパパのクロスモーダル研究の話は独創的で、魅力的だった。選ばれた優秀な存在に違いない。何度も伝えたが、その度に首を横に振られた。手のひらが頭の上にそっと置かれる。ながい指が髪をとかす。

「だからクロがいる。お父さんは人類がまだ見たことのない白を見てみたい。クロに助けて貰いたい」

 パパの手を取り、胸元に引き寄せる。しっとりとして柔らかい。きっかけは雪国の住民たちへのインタビューだったらしい。彼らにはたくさんの白が見えていた。ふかふかの白、硬い白、温かい白、鈍い白、パパは羨ましげに語る。

 わたしは造られた。ママはいない。強いて言うなら育ての母は試験管と保育器、産みの母はパパになる。パパは自分の体細胞から擬似卵子を造った。

 ママが居なくても平気。パパが見たい世界を実現する。わたしの生きがいだ。わたしはパパで、パパはわたしだ。

 

 寝室にアラームが響く。赤い高音が部屋中を駆け巡る。朱い肌触りとピンクの重さを持ったブランケットを寝ぼけまなこで引き剥がす。

 インコがアラームの声真似をする。見事にコピーされた赤い鳴き声。先週から飼い始めた。取っ手を回し部屋を出る。橙の丸み。三日前に取り替えた。

 ダイニングに立ち込めるトーストの香りに違和感を覚える。青い。耳をすませば緑が届く。フライパン上で油が跳ねる音色だった。

「パパったら! 今は赤色を集めてるのは知ってるでしょう? そっちは緑で、こっちは青だよ」

「ん、そうなのか? フライパンは赤いのを買ったんだけど」

 黄緑のリズムでパパは話す。

「パパの見える赤だけじゃないの。何度も説明したでしょう? 全部クロに任せてくれていいから」

 パパをギュッと抱きしめる。麻のシャツに頭を沈める。ザラザラとえんじ色のさわり心地がする。

 音にも、香りにも、柔らかさにも、美味しさにも色は潜んでいる。潜む色を感知する力を人類は生まれながらに持っている。しかし成長とともに要らないものとして捨てられる。結びついていたはずの神経回路は刈り込まれる。

 パパはわたしの視神経が他の五感を司る神経系から遮断されるのを防いだ。ダイニングテーブルに視線を落とす。使い古された茶の木目は美しい。仄かに立つウッディな香りは赤紫を呈している――偶然にも赤軸の香りだったので、しまい込まずに済んだ――。

 xy平面にz軸が加わる様に、世界は豊かな表情を見せてくる。テーブルに手を乗せる。柔らかい感触が返ってくる。爪で弾くと乾いた音が立つ。全てに色がある。わたしは色彩の迷路の真ん中に居る。

 迷路を抱え込むには脳の容量が足りないようだった。わたしには喜怒哀楽の【怒】と【哀】、おおよそネガティブ感情と呼ばれる感情群を失くしてしまった。

 周囲の人はわたしを僅かに恐れている。買い物の時など、わたしの反応をみて変な顔をされるから。少しだけ笑顔を控え目にするといい。ちょっと面倒くさいけど、豊かな世界を生きるためのささやかな代償。

「パパにはクロよりもっとすごい世界を見せてあげるからね」

 わたしには解法がたくさんあった。だからか同年代の子たちよりは賢いとされた。それでもようやくパパの研究に誘ってもらえたのは一ヶ月前の十三歳の誕生日だった。両手を上げ、跳ね、走り回った。いかにも子供らしい反応だった。思い出すたびに顔が火照る。

 これでパパの夢の一端を担える。わたしが見ている世界をパパにインストールするのだ。

 

 やがて迎えた十四歳の誕生日。わたしの赤をパパへ送る日。今日までたくさんの赤データを集めてきた。

「パパ、準備はいい?」

 パパは返事をしない。麻酔が効いてるから当然だ。わたしたちは隣り合ったベッドに横たわっている。枕の代わりにふたりの後頭部には無機質な筐体、この枕型デバイスを通じてパパの後頭葉にわたしの赤データをコピーして送り込む。

 びくん、とパパが跳ねる。ずきん、と頭が痛む。こみかみを揉む。連結し合った脳全体でカバーしているとはいえ、倍量の赤データは負担が大きい。

 これから一週間、パパに赤い生活を堪能してもらったら、次は青い生活だ。お気に入りのダイニングテーブルはいったん納屋に片付けよう。

 

 十五歳の誕生日を迎える。この一年、パパはよく眼鏡を外して鼻頭を揉んでいた。わたしにとって生まれつきでも、パパははるか昔に要らないものとして捨てたのだ。獲得した世界を新しく学び、順応しなければならない。大変なことだろう。

「クロはこんな素晴らしい世界を見ていたんだな。赤一つとっても世界は豊かだ」

 両腕を広げるパパに飛び込む。ぼふ、と互いのコットンが擦れる紺の音がする。水色の香りの紅茶がパパの喉を抜けていく。しばらくパパの口から水色が漏れていた。

「クロ、散歩に行かないか?」

 パパの左腕を抱きしめる。部屋は青で満たされている。パパは赤が見たいのだ。青の部屋では物足りないのだろう。かわいい。言うと拗ねるから止めておく。

 赤だけ――わたしの三分の一だけ――の共有だったけれど、パパと世界を共有できて幸せだった。森を行く。木々の光合成も、動物たちの呼吸も、生命の多様性が織り成す色彩は眩しいほどだった。きっとパパは素晴らしい世界を見ることが出来る。

 青データをコピーする。予め鎮痛剤を投与しておいた。もうひとつ作業をする。赤に関する視神経と他の回路の繋がりを切り離す。二年間のデータ収集で刈り込みに関する知見が増える中、神経系の繋がりを断つ方法を発見した。

 パパには内緒にしておこう。きっとわたしと同じ世界を共有したいはずだ。ふとした間が生じる。このぼんやりとした感覚が寂しさなのかもしれない。でもパパと同じものを見る必要はない。パパのためにわたしはわたしに出来ることをやる。

 鏡に黒いチョーカーが映る。十五歳のお祝いにパパが買ってくれた。嬉しい。いつかお返しをしなきゃいけない。忘れずに記憶に刻み込む。

 青の世界を獲得したパパは恍惚の顔で青の部屋を見ていた。細い癖毛の間に手を差し込み、掻いている。

「クロ。人はなんて愚かなんだろうね。こんなにも豊かな世界を刈り取るだなんて」

 パパの口元をハンカチで拭う。モスグリーンの涎で湿る。微笑み返すとパパは涙を流した。親指で涙を拭ってあげた。

青のコピーデータを消す。合わせて青に関連する視神経と他の繋がりを切り離しておいた。パパはわたしの眼を得て世界を更新する。わたしも見倣って新しい世界に身を置かなくてはいけない。これから緑の一年が始まる。

 

 一年間、パパは絵を描き続けた。時に取り乱し、時に歓喜に舞い踊った。パパが感じている厚みのある赤や青は、わたしが手放した代物だ。パパの絵の色彩に、直接的な理解は及ばなかった。

 それでも、パパが満足気にわたしに見せてくれる作品たちが持つ圧に懐かしさと好ましさを抱かずにはいられなかった。

 シスレーの様な柔らかな充実感、セザンヌの様な力強い立体感を感じさせる。決して線や構図でそれらを演出していなかった。わたしの眼に捉えることのできない色で印象は強化されていたのだろう。偉大なる画家たちは世界の深淵をほんの少しだけ覗いていたのかもしれない。

 一つだけ足りないとしたら緑色だ。パパは緑色の世界を描くことが出来なかった。パパに渡していない最後の領域だった。

 あと三日でわたしは十六歳になる。わたしの眼の全てをパパに譲る日。一年間、慣れ親しんだ緑色の部屋。パパがわたしを呼ぶ声が聴こえる。パパはもちろん自覚していなかったけれど、最初からパパは緑の声を持っていた。最後まで緑を残したのは、パパの機微を感じ取る能力を捨てたくなかったのかもしれない。

 緑データをコピーする。

 

 十六歳になった。わたしは普通の女の子に成り果てた。木製のダイニングテーブル、囁く鳥、太陽光、隣家の人々と同じ感覚でそれらを見ている。

 ご近所迷惑にならないように、窓をそっと閉める。騒音問題はコミュニケーションの上で最も繊細な課題らしい。室内に声が響く。

 役目を終えた枕型デバイスをそっと持ち上げる。思い切り床に叩きつける。バラバラに撒かれた蛋白質様プラスチックの破片の中、白いチップを拾い上げる。デバイスに保存されていた以外の色彩データは全て破棄した。わたしが見ていた世界は、眼前の桜の花びらみたいなチップにのみ蓄えられている。

 へし折る。いとも簡単にわたしの世界だったデータ群は失われた。もはや知覚出来ないデータを収集することは難しいだろう。パパの眼をじっと見る。データ収集できる眼、しかし為されることはないだろう。

「どうパパ? 嬉しい? パパの夢だったまだ誰も見たことのない白だよ。多分わたしたちが生きている間は誰もたどり着けないよ」

 パパは呻き声を上げて喜んでいる。涎を拭う。人間ひとりの脳では容量が足りない。だから壊れたんだろう。既に刈り込みの終わった人間の視神経と後頭葉だけでは明らかに耐えられない。

 それが正解だ。わたしの見る赤と緑と青――超高解像度RGB――を、純粋な視神経のみで処理することで誰も見たことがない白になる。

「春には卒業するし、働けるから。パパのお世話はクロがしてあげるね」

 パパの腕に麻酔薬を打ち込む。真っ白な枕と掛け布団は今日のために選び抜いた一品だ。

「パパ、おやすみなさい」

 わたしは首から黒いチョーカーを外す。木箱を開けチョーカーを入れ替える。取り出した白いチョーカーはパパにとっても似合っていた。

 パパにむりやり繋げられた視神経の繋がりを全て切り離して生成された感情、いや隠れていた感情を理解した。わたしの心はずっと怒りに満ちていた。

「なに、笑ってるの?」

 パパに問う。鏡に映るわたし自身への問いでもあった。わたしは窓を開けた。木々が揺れている。色に変換されない鳥の声は純粋で美しかった。

 パパ、大好きだよ。