わくら屋

和倉稜の掌編・短編小説

プロピオニバクテリウム・アクネス(イグBFC2 参加作品)

 アクネ菌が話しかけてきた。

 卒論に向けた追い込み実験を終え、帰宅した寒い深夜のことだ。ボロアパートの壁は薄く、隣人は何ら特徴のない男だった。その男の部屋から艶かしい女の声が響いてきた。自分と身なりの変わらない隣人に恋人がいるなんて勘弁して欲しい。

 湧き上がる怒りと性欲は別物で、耳を壁に押し当てた。興奮した。昔からニキビが酷く、赤く腫れ上がった頬が黄ばんだクロスと擦れて痛い。

 ぶちっ。

 化膿していた場所が潰れた。クロスに血の点が付いていた。少し経つと傷口が痒くなる。掻くと膿が爪に付いた。痒い。異様な痒さだ。そっと触れる。妙に長い角栓が取れた。まだ痒い。洗面台の鏡を見る。

 傷穴から黄色い何かがにゅるりと湧いている。拭っても止まらない。夢だ。部屋へ戻り再び壁に耳を押し当てると、二人同時に果てる声が届いた。興奮しつつ悲しみの涙に濡れる。現実なのだと実感する。ならば奇病を患った?

「琢磨もニキビさえなければ彼女が出来るのにな。あ、俺のせいか。ひゃひゃひゃ」

 次は幻聴だ。視線の下で何かが揺れた気がした。目線をぐっと下に寄せる。どうやら角栓の紐は集まって直径3センチ程の球になっているらしい。

「おい琢磨」

 また幻聴。再び鏡へ向かう。やはり夢だ。球には目のような窪みが二つ、その下に口らしきものもあり上下に開閉している。

 指から紐が出て具現化する能力こそ格好良いが、毛穴から角栓が出るなんて夢にも思わなかった。いや、夢か。とにかく不快である。ニキビのせいで友人一人さえいないのに、唯一の語り相手として角栓が具現化するかね。球を摘み引っ張る。

「いてぇ、いてぇって。止めろ琢磨」

 恋人たちは愛を囁いているだろうか。痛いと連呼する球の声は一向に止まない。現実なのか?

「お前は一体?」

「水くせぇぞ琢磨。俺だよ俺、プロピオニバクテリウム・アクネスだよ」

「知らん」

「かーっ、勉強しとけ。アクネ菌だろ。お前の、汚い、肌のげんい――ぎゃあ」

 ちぎれた。もしかして菌を見る才能が種麹屋の跡継ぎでもないのにあるのか?

 

 生物系の研究室に入れないか考える内に三日が過ぎた。あの日以来菌が見えることはない。

「ひどいじゃないか。増えるのに結構かかるんだぜ」

 復活した。一個体ではなく集合体が一匹に見えているらしい。能力が戻った。他の菌が見えないか周囲を見渡すが、アクネ菌の化身しか見えない。

「そりゃ琢磨の能力じゃなくて俺の能力で見えてるからな」

 寄生生物系か。宇宙から来いよ。毛穴から発生してくれるな。

「目的はなんだ? 契約して魔法少女になればいいのか?」

「琢磨、話したのは三日前からだが長い付き合いだろ? アクーと呼んでくれ」

「寄生部位に由来するならカオーとかの方が原作に忠実じゃないか? 設定がわからん。なんで俺と知識レベルが同じなんだ?」

「琢磨の皮脂と剥離した角層に宿ってるからな」

「排出物に宿るな。脳から知識を得てくれ」

 70%エタノールを吹きかけると、断末魔をあげて溶けていく。意外にも効くんだな。

 

「で、俺の目的なんだが」

 三日後、アクーは復活する。表在化した部分を殺したところで、毛穴の奥深くにいるアクーが力を蓄えるとまた現れる。

「魔族みたいだな。友達はいないのか?」

「他の菌は駆逐した。ここは広々快適空間だ」

 理解した。アクーは強大な力を得たアクネ菌だ。肌細胞の免疫応答は凄まじいものだろう。炎症性サイトカインや角化因子は分泌され続け、激しい炎症と皮膚ターンオーバー異常が起こる。汚い肌も当然だ。

「アクー、お前だったのか」

 銀系抗菌剤をアクーに振りかける。

「俺は滅びぬ、何度でも蘇るさ」

 肌表面で切り離された残骸が床に落ち、転がる。

 

「他の菌を駆逐したはいいが、寂しかったんだろうな。琢磨と同じぼっちさ」

 アクーはひょこひょこと毛穴から出入りしている。先日、火を近づけた時に発覚したのだが、毛穴の内側に体全体を潜り込ませることが出来るらしい。

「見えている部分は体の半分くらいか。出し入れは自由」

「じゃあ毛穴中の荷物をまとめて出ていってくれ」

「馬鹿か。飯がないと死んじまう」

「ん? 俺よりも魅力的な餌場さえあれば出ていってくれるのか?」

 何かを得るためには同等の対価が必要だ。研究者人生を犠牲に、アクーを追い出す。

 

 うちの研究室で取り組むテーマじゃない、と言う教授を押し切った。修士で追い出すつもりだっただろうし、最後は憐憫の情を持って肌を見つめてきた。

 謝礼をたっぷり用意し、老若男女の角栓を世界中から集めた。研究用に接着性を強めた毛穴シートにびっしり角栓が並ぶ。ピンセットで摘んではマイクロスコープで形状を撮影し、その後、溶媒に溶かして成分分析を行う。余った角栓は持ち帰りアクーに与える。アクーは咀嚼すると大概を吐き出した。

 修士を出る頃には高IF雑誌に論文が掲載された。菌の声が聴こえるので当然だ。しかし本人の肌が最も荒れている。魔王を封印された赤法師の様だ。

 灯台下暗し。ようやく見つけた最高の餌場は隣に住む男だった。アクーは恍惚の表情で角栓を食べている。

「世話になった。俺を奴の家へ送り込んでくれ」

 隣人は酒を持っていくと明るく迎え入れてくれた。隙を見てアクーは頬からぽとりと落ちる。

「じゃあな。お前との生活も悪くなかった。おい、おいって」

 もうこちらを見ていない。酔いつぶれた男のどの毛穴に入ろうか選別している。現金な奴。菌なら生存最優先なのは仕方ないが。

 

 二日後、壁伝いに悲鳴が響いた。面倒な奴を押し付けてすまない。彼女とは別れるかもしれない。すまない。ざまあみろ。

 自身の肌がきれいになるのか、期待で胸が膨らむ。もうアクネ菌研究をしなくてよい。

 

 翌日、囁き声が聴こえた。

「おつかれさん。またよろし――ぐきゃあ」

 過酸化ベンゾイルを擦り込む。一個体じゃないならこっちでも増えようとするわな。駄目だこいつら侵略者だ。駆逐してやる。この世から一匹残らず。

 

(了)