わくら屋

和倉稜の掌編・短編小説

ハロー・ミステリー(BFC3応募作品)

 落ちていた遼のボクサーパンツ、ライトグリーンのクッション、タオルケット、目についた柔らかいものを片っ端から投げつける。受け止めた遼は両手を一杯にする。

「まあまあ七瀬さん、ちょっと落ち着きな」

 落ち着いてられるか。私が初めて主催するミステリー読書会だった。ある一人の参加者によって失敗に終わった。鼻に皺を寄せる。

 ミステリー初心者には叙述トリックで驚いて貰おう、その考えが仇となった。次に読むおすすめ本のリストをみるや、ネタバレありで自慢気に知識を披露された。多くの参加者は普段ミステリーを読まない人たちで、唖然としていた。次は参加しないだろう。

 高齢の彼からしたら、俗に言う女・子供に場を仕切られるのは不満で、自己顕示欲に駆られたのだろう。とはいえ私も三十代だ。

 恋人の遼が苦笑いを浮かべている。忙しい間に手伝ってもらったのに申し訳ない。

「せめてものお礼に」

 アヒージョの小エビを遼の皿に乗せる。

「卑しすぎ。お礼なら七瀬さんが作った美容液がいいかな」

 遼は手のひらを頬に当てる。男性がスキンケアをすることさえ珍しくなくなった。ずぼらで肌の荒れていた遼に、美容液の試作見本を投げつけたのが先週、そこから毎日肌の調子を報告してくるのでうざったい。

「んー、担当した美容液が発売になったから社販で買ってくる」

 処方開発は嫌いじゃない。シーズン毎の新商品開発こそあれど、数年でトレンドが戻る繰り返しの日々。抜け出すには昇格試験を経てマネジメントに専念すればよい。開発部の近しい世代の半分はそうしたし、もう半分は他部署への異動や転職で開発から離れた。

 居場所を探していた。しかし仕事には意義を見出せないまま過ごしていた。

 三十代のヒラ開発者に周囲の目は厳しい。遼と結婚して環境を変えようかと思ったが、それも逃げの様で嫌悪感が募る。仕事で活躍している遼に負担を掛けたくはなかった。

 読書会を主催するきっかけは些細な出来事からだった。半年前に後輩の笹原と外出した際、ホームで次の電車を待っていた。

「最近、読書を始めて。これ知ってます?」

 スマートフォンに読書記録アプリが映る。電車がホームへ滑り込む。

「読んだ冊数が増えると、次も読みたくなるんですよ。あっ、すみません。女性専用車両だ。隣の車両に移動しましょう」

 揺れる電車の中でアプリをインストールした。学生時代、通学電車の中で小説を読んでいた日々を思い返す。

 一つだけ空いた座席に笹原を座らせる。最初笹原は戸惑ったが、年寄り扱いしないで欲しいと首を振った。そわそわする笠原の小さな頭を見下ろしながら、遼なら遠慮なく座るだろうなと、ふと笑みがこぼれた。

「健康のため。若いんだから座っときな」

 次の休日、大型書店に足を運んだ。アプリに読めと促された気がした。久々に訪れる小説エリアは華やかに彩られていた。

「出版点数を増やしてるし、買い支えてるのは二、三十代の女性なんだよ。恋愛ものやライトミステリーが多い」

 文庫棚を前に遼の言葉が蘇る。遼はビジネス書を買いによく本屋へ赴く。平積みにされた恋愛小説を手に取る。学生時代はよく読んだが、今にして魅了される気はしなかった。 

 はたと記憶が再生される。作者名と題名から女性作家の恋愛ものだと思った小説が実はミステリーで仕掛けに驚愕したことがある。

 フェア台でオールタイムベストと銘打たれたミステリー小説を取り、レジへ向かう。

「おっ、新本格

 シートマスクを顔に貼り付けた遼が目を輝かせる。最近、洗面台には遼の化粧品がますます増えている。メーク品まで揃ってきた。

「懐かしい。大学の時によく読んだよ」

「なに? その新本格って?」

 遼はミステリーの歴史を喜々と語る。化粧気のある遼も様になっているが、理知的に語る姿は懐かしい。出会いは塾講師のアルバイトの時、二つ年上の私相手に遼はちゃんと敬語で、今の様な小生意気な態度はなかった。

 遼が寝息を立てている。デスクライトを小さく点し、本を読み始める。おや? 捲る手が止まらない。気づくと明け方で興奮のままに揺り起こした遼は不機嫌だった。十年近い仕事を経て論理的な構造を好むようになったのだろうか? ミステリーは面白い。

 貪るように読んだ。知識が蓄積すると話したくなるのは人間の性だが、職場には語る相手がいない。いつしか遼が過去に読んだよりも多くのミステリーに触れていた。

「これ、行ってみなよ」

 ある日、遼がディスプレイを見せてきた。ミステリー読書会と記されている。課題本の感想を話す二時間で、ネタバレありで語り合う時間を過ごした。幸せだった。

 だから自分で主催することにした。遅くにやってきた青春、初回は失敗。だが青春に失敗はつきものだ。私のようにミステリー初心者がミステリーを好きになる読書会を作りたい。私は節くれだった手を握る。

 ベッド傍に落ちたブラジャーを見つける。

「遼、下着を脱ぎっぱなしにしないって何度も言っただろう」

 へーい、とやる気のない返事で遼は自身のブラジャーを拾いあげる。

「七瀬さんだって、わたしの下着を拝めて嬉しいくせに」

 そろそろ苗字じゃなくて名前で呼んで欲しいが、癖が抜けないらしい。女子高生時代の遼の姿が浮かぶ。

 いつまでも先生じゃないんだから、、、、、、、、、、、、、、、

 ミステリー初心者には叙述トリック、さて二回目の読書会のテーマは何にしようか。

 

(了)