わくら屋

和倉稜の掌編小説おいてます。

プロピオニバクテリウム・アクネス(イグBFC2 参加作品)

 アクネ菌が話しかけてきた。

 卒論に向けた追い込み実験を終え、帰宅した寒い深夜のことだ。ボロアパートの壁は薄く、隣人は何ら特徴のない男だった。その男の部屋から艶かしい女の声が響いてきた。自分と身なりの変わらない隣人に恋人がいるなんて勘弁して欲しい。

 湧き上がる怒りと性欲は別物で、耳を壁に押し当てた。興奮した。昔からニキビが酷く、赤く腫れ上がった頬が黄ばんだクロスと擦れて痛い。

 ぶちっ。

 化膿していた場所が潰れた。クロスに血の点が付いていた。少し経つと傷口が痒くなる。掻くと膿が爪に付いた。痒い。異様な痒さだ。そっと触れる。妙に長い角栓が取れた。まだ痒い。洗面台の鏡を見る。

 傷穴から黄色い何かがにゅるりと湧いている。拭っても止まらない。夢だ。部屋へ戻り再び壁に耳を押し当てると、二人同時に果てる声が届いた。興奮しつつ悲しみの涙に濡れる。現実なのだと実感する。ならば奇病を患った?

「琢磨もニキビさえなければ彼女が出来るのにな。あ、俺のせいか。ひゃひゃひゃ」

 次は幻聴だ。視線の下で何かが揺れた気がした。目線をぐっと下に寄せる。どうやら角栓の紐は集まって直径3センチ程の球になっているらしい。

「おい琢磨」

 また幻聴。再び鏡へ向かう。やはり夢だ。球には目のような窪みが二つ、その下に口らしきものもあり上下に開閉している。

 指から紐が出て具現化する能力こそ格好良いが、毛穴から角栓が出るなんて夢にも思わなかった。いや、夢か。とにかく不快である。ニキビのせいで友人一人さえいないのに、唯一の語り相手として角栓が具現化するかね。球を摘み引っ張る。

「いてぇ、いてぇって。止めろ琢磨」

 恋人たちは愛を囁いているだろうか。痛いと連呼する球の声は一向に止まない。現実なのか?

「お前は一体?」

「水くせぇぞ琢磨。俺だよ俺、プロピオニバクテリウム・アクネスだよ」

「知らん」

「かーっ、勉強しとけ。アクネ菌だろ。お前の、汚い、肌のげんい――ぎゃあ」

 ちぎれた。もしかして菌を見る才能が種麹屋の跡継ぎでもないのにあるのか?

 

 生物系の研究室に入れないか考える内に三日が過ぎた。あの日以来菌が見えることはない。

「ひどいじゃないか。増えるのに結構かかるんだぜ」

 復活した。一個体ではなく集合体が一匹に見えているらしい。能力が戻った。他の菌が見えないか周囲を見渡すが、アクネ菌の化身しか見えない。

「そりゃ琢磨の能力じゃなくて俺の能力で見えてるからな」

 寄生生物系か。宇宙から来いよ。毛穴から発生してくれるな。

「目的はなんだ? 契約して魔法少女になればいいのか?」

「琢磨、話したのは三日前からだが長い付き合いだろ? アクーと呼んでくれ」

「寄生部位に由来するならカオーとかの方が原作に忠実じゃないか? 設定がわからん。なんで俺と知識レベルが同じなんだ?」

「琢磨の皮脂と剥離した角層に宿ってるからな」

「排出物に宿るな。脳から知識を得てくれ」

 70%エタノールを吹きかけると、断末魔をあげて溶けていく。意外にも効くんだな。

 

「で、俺の目的なんだが」

 三日後、アクーは復活する。表在化した部分を殺したところで、毛穴の奥深くにいるアクーが力を蓄えるとまた現れる。

「魔族みたいだな。友達はいないのか?」

「他の菌は駆逐した。ここは広々快適空間だ」

 理解した。アクーは強大な力を得たアクネ菌だ。肌細胞の免疫応答は凄まじいものだろう。炎症性サイトカインや角化因子は分泌され続け、激しい炎症と皮膚ターンオーバー異常が起こる。汚い肌も当然だ。

「アクー、お前だったのか」

 銀系抗菌剤をアクーに振りかける。

「俺は滅びぬ、何度でも蘇るさ」

 肌表面で切り離された残骸が床に落ち、転がる。

 

「他の菌を駆逐したはいいが、寂しかったんだろうな。琢磨と同じぼっちさ」

 アクーはひょこひょこと毛穴から出入りしている。先日、火を近づけた時に発覚したのだが、毛穴の内側に体全体を潜り込ませることが出来るらしい。

「見えている部分は体の半分くらいか。出し入れは自由」

「じゃあ毛穴中の荷物をまとめて出ていってくれ」

「馬鹿か。飯がないと死んじまう」

「ん? 俺よりも魅力的な餌場さえあれば出ていってくれるのか?」

 何かを得るためには同等の対価が必要だ。研究者人生を犠牲に、アクーを追い出す。

 

 うちの研究室で取り組むテーマじゃない、と言う教授を押し切った。修士で追い出すつもりだっただろうし、最後は憐憫の情を持って肌を見つめてきた。

 謝礼をたっぷり用意し、老若男女の角栓を世界中から集めた。研究用に接着性を強めた毛穴シートにびっしり角栓が並ぶ。ピンセットで摘んではマイクロスコープで形状を撮影し、その後、溶媒に溶かして成分分析を行う。余った角栓は持ち帰りアクーに与える。アクーは咀嚼すると大概を吐き出した。

 修士を出る頃には高IF雑誌に論文が掲載された。菌の声が聴こえるので当然だ。しかし本人の肌が最も荒れている。魔王を封印された赤法師の様だ。

 灯台下暗し。ようやく見つけた最高の餌場は隣に住む男だった。アクーは恍惚の表情で角栓を食べている。

「世話になった。俺を奴の家へ送り込んでくれ」

 隣人は酒を持っていくと明るく迎え入れてくれた。隙を見てアクーは頬からぽとりと落ちる。

「じゃあな。お前との生活も悪くなかった。おい、おいって」

 もうこちらを見ていない。酔いつぶれた男のどの毛穴に入ろうか選別している。現金な奴。菌なら生存最優先なのは仕方ないが。

 

 二日後、壁伝いに悲鳴が響いた。面倒な奴を押し付けてすまない。彼女とは別れるかもしれない。すまない。ざまあみろ。

 自身の肌がきれいになるのか、期待で胸が膨らむ。もうアクネ菌研究をしなくてよい。

 

 翌日、囁き声が聴こえた。

「おつかれさん。またよろし――ぐきゃあ」

 過酸化ベンゾイルを擦り込む。一個体じゃないならこっちでも増えようとするわな。駄目だこいつら侵略者だ。駆逐してやる。この世から一匹残らず。

 

(了)

お父さんはソファ探偵(青い鳥文庫プロット大賞 応募作品)

今回は掌編ではなくプロットになります。

ぜひ下記リンクからお読みくださいませ。

 

https://novel.daysneo.com/sp/works/1b980894dc70377bda29cd6a6eecb3b0.html

 

初めて児童文庫に挑戦してみました。

 

脱落した女

下記リンクからお読みくださいませ。

和倉稜と書かれた右のストーリーボタンをクリックすると表示されます。

sdr-cmp.com

 

絵と歌と物語を繋いでいくって面白い取り組みですね。

ストーリーを一度クリックすると対応する楽曲や歌詞、歌のみが表示されるようになっております。

そちらも聴いてみてくださいね。

 

 

パパ見ぬ世界

 パパ、大好きだよ。

「世界に選ばれたかった」

 パパの口癖だった。喜々と語るパパのクロスモーダル研究の話は独創的で、魅力的だった。選ばれた優秀な存在に違いない。何度も伝えたが、その度に首を横に振られた。手のひらが頭の上にそっと置かれる。ながい指が髪をとかす。

「だからクロがいる。お父さんは人類がまだ見たことのない白を見てみたい。クロに助けて貰いたい」

 パパの手を取り、胸元に引き寄せる。しっとりとして柔らかい。きっかけは雪国の住民たちへのインタビューだったらしい。彼らにはたくさんの白が見えていた。ふかふかの白、硬い白、温かい白、鈍い白、パパは羨ましげに語る。

 わたしは造られた。ママはいない。強いて言うなら育ての母は試験管と保育器、産みの母はパパになる。パパは自分の体細胞から擬似卵子を造った。

 ママが居なくても平気。パパが見たい世界を実現する。わたしの生きがいだ。わたしはパパで、パパはわたしだ。

 

 寝室にアラームが響く。赤い高音が部屋中を駆け巡る。朱い肌触りとピンクの重さを持ったブランケットを寝ぼけまなこで引き剥がす。

 インコがアラームの声真似をする。見事にコピーされた赤い鳴き声。先週から飼い始めた。取っ手を回し部屋を出る。橙の丸み。三日前に取り替えた。

 ダイニングに立ち込めるトーストの香りに違和感を覚える。青い。耳をすませば緑が届く。フライパン上で油が跳ねる音色だった。

「パパったら! 今は赤色を集めてるのは知ってるでしょう? そっちは緑で、こっちは青だよ」

「ん、そうなのか? フライパンは赤いのを買ったんだけど」

 黄緑のリズムでパパは話す。

「パパの見える赤だけじゃないの。何度も説明したでしょう? 全部クロに任せてくれていいから」

 パパをギュッと抱きしめる。麻のシャツに頭を沈める。ザラザラとえんじ色のさわり心地がする。

 音にも、香りにも、柔らかさにも、美味しさにも色は潜んでいる。潜む色を感知する力を人類は生まれながらに持っている。しかし成長とともに要らないものとして捨てられる。結びついていたはずの神経回路は刈り込まれる。

 パパはわたしの視神経が他の五感を司る神経系から遮断されるのを防いだ。ダイニングテーブルに視線を落とす。使い古された茶の木目は美しい。仄かに立つウッディな香りは赤紫を呈している――偶然にも赤軸の香りだったので、しまい込まずに済んだ――。

 xy平面にz軸が加わる様に、世界は豊かな表情を見せてくる。テーブルに手を乗せる。柔らかい感触が返ってくる。爪で弾くと乾いた音が立つ。全てに色がある。わたしは色彩の迷路の真ん中に居る。

 迷路を抱え込むには脳の容量が足りないようだった。わたしには喜怒哀楽の【怒】と【哀】、おおよそネガティブ感情と呼ばれる感情群を失くしてしまった。

 周囲の人はわたしを僅かに恐れている。買い物の時など、わたしの反応をみて変な顔をされるから。少しだけ笑顔を控え目にするといい。ちょっと面倒くさいけど、豊かな世界を生きるためのささやかな代償。

「パパにはクロよりもっとすごい世界を見せてあげるからね」

 わたしには解法がたくさんあった。だからか同年代の子たちよりは賢いとされた。それでもようやくパパの研究に誘ってもらえたのは一ヶ月前の十三歳の誕生日だった。両手を上げ、跳ね、走り回った。いかにも子供らしい反応だった。思い出すたびに顔が火照る。

 これでパパの夢の一端を担える。わたしが見ている世界をパパにインストールするのだ。

 

 やがて迎えた十四歳の誕生日。わたしの赤をパパへ送る日。今日までたくさんの赤データを集めてきた。

「パパ、準備はいい?」

 パパは返事をしない。麻酔が効いてるから当然だ。わたしたちは隣り合ったベッドに横たわっている。枕の代わりにふたりの後頭部には無機質な筐体、この枕型デバイスを通じてパパの後頭葉にわたしの赤データをコピーして送り込む。

 びくん、とパパが跳ねる。ずきん、と頭が痛む。こみかみを揉む。連結し合った脳全体でカバーしているとはいえ、倍量の赤データは負担が大きい。

 これから一週間、パパに赤い生活を堪能してもらったら、次は青い生活だ。お気に入りのダイニングテーブルはいったん納屋に片付けよう。

 

 十五歳の誕生日を迎える。この一年、パパはよく眼鏡を外して鼻頭を揉んでいた。わたしにとって生まれつきでも、パパははるか昔に要らないものとして捨てたのだ。獲得した世界を新しく学び、順応しなければならない。大変なことだろう。

「クロはこんな素晴らしい世界を見ていたんだな。赤一つとっても世界は豊かだ」

 両腕を広げるパパに飛び込む。ぼふ、と互いのコットンが擦れる紺の音がする。水色の香りの紅茶がパパの喉を抜けていく。しばらくパパの口から水色が漏れていた。

「クロ、散歩に行かないか?」

 パパの左腕を抱きしめる。部屋は青で満たされている。パパは赤が見たいのだ。青の部屋では物足りないのだろう。かわいい。言うと拗ねるから止めておく。

 赤だけ――わたしの三分の一だけ――の共有だったけれど、パパと世界を共有できて幸せだった。森を行く。木々の光合成も、動物たちの呼吸も、生命の多様性が織り成す色彩は眩しいほどだった。きっとパパは素晴らしい世界を見ることが出来る。

 青データをコピーする。予め鎮痛剤を投与しておいた。もうひとつ作業をする。赤に関する視神経と他の回路の繋がりを切り離す。二年間のデータ収集で刈り込みに関する知見が増える中、神経系の繋がりを断つ方法を発見した。

 パパには内緒にしておこう。きっとわたしと同じ世界を共有したいはずだ。ふとした間が生じる。このぼんやりとした感覚が寂しさなのかもしれない。でもパパと同じものを見る必要はない。パパのためにわたしはわたしに出来ることをやる。

 鏡に黒いチョーカーが映る。十五歳のお祝いにパパが買ってくれた。嬉しい。いつかお返しをしなきゃいけない。忘れずに記憶に刻み込む。

 青の世界を獲得したパパは恍惚の顔で青の部屋を見ていた。細い癖毛の間に手を差し込み、掻いている。

「クロ。人はなんて愚かなんだろうね。こんなにも豊かな世界を刈り取るだなんて」

 パパの口元をハンカチで拭う。モスグリーンの涎で湿る。微笑み返すとパパは涙を流した。親指で涙を拭ってあげた。

青のコピーデータを消す。合わせて青に関連する視神経と他の繋がりを切り離しておいた。パパはわたしの眼を得て世界を更新する。わたしも見倣って新しい世界に身を置かなくてはいけない。これから緑の一年が始まる。

 

 一年間、パパは絵を描き続けた。時に取り乱し、時に歓喜に舞い踊った。パパが感じている厚みのある赤や青は、わたしが手放した代物だ。パパの絵の色彩に、直接的な理解は及ばなかった。

 それでも、パパが満足気にわたしに見せてくれる作品たちが持つ圧に懐かしさと好ましさを抱かずにはいられなかった。

 シスレーの様な柔らかな充実感、セザンヌの様な力強い立体感を感じさせる。決して線や構図でそれらを演出していなかった。わたしの眼に捉えることのできない色で印象は強化されていたのだろう。偉大なる画家たちは世界の深淵をほんの少しだけ覗いていたのかもしれない。

 一つだけ足りないとしたら緑色だ。パパは緑色の世界を描くことが出来なかった。パパに渡していない最後の領域だった。

 あと三日でわたしは十六歳になる。わたしの眼の全てをパパに譲る日。一年間、慣れ親しんだ緑色の部屋。パパがわたしを呼ぶ声が聴こえる。パパはもちろん自覚していなかったけれど、最初からパパは緑の声を持っていた。最後まで緑を残したのは、パパの機微を感じ取る能力を捨てたくなかったのかもしれない。

 緑データをコピーする。

 

 十六歳になった。わたしは普通の女の子に成り果てた。木製のダイニングテーブル、囁く鳥、太陽光、隣家の人々と同じ感覚でそれらを見ている。

 ご近所迷惑にならないように、窓をそっと閉める。騒音問題はコミュニケーションの上で最も繊細な課題らしい。室内に声が響く。

 役目を終えた枕型デバイスをそっと持ち上げる。思い切り床に叩きつける。バラバラに撒かれた蛋白質様プラスチックの破片の中、白いチップを拾い上げる。デバイスに保存されていた以外の色彩データは全て破棄した。わたしが見ていた世界は、眼前の桜の花びらみたいなチップにのみ蓄えられている。

 へし折る。いとも簡単にわたしの世界だったデータ群は失われた。もはや知覚出来ないデータを収集することは難しいだろう。パパの眼をじっと見る。データ収集できる眼、しかし為されることはないだろう。

「どうパパ? 嬉しい? パパの夢だったまだ誰も見たことのない白だよ。多分わたしたちが生きている間は誰もたどり着けないよ」

 パパは呻き声を上げて喜んでいる。涎を拭う。人間ひとりの脳では容量が足りない。だから壊れたんだろう。既に刈り込みの終わった人間の視神経と後頭葉だけでは明らかに耐えられない。

 それが正解だ。わたしの見る赤と緑と青――超高解像度RGB――を、純粋な視神経のみで処理することで誰も見たことがない白になる。

「春には卒業するし、働けるから。パパのお世話はクロがしてあげるね」

 パパの腕に麻酔薬を打ち込む。真っ白な枕と掛け布団は今日のために選び抜いた一品だ。

「パパ、おやすみなさい」

 わたしは首から黒いチョーカーを外す。木箱を開けチョーカーを入れ替える。取り出した白いチョーカーはパパにとっても似合っていた。

 パパにむりやり繋げられた視神経の繋がりを全て切り離して生成された感情、いや隠れていた感情を理解した。わたしの心はずっと怒りに満ちていた。

「なに、笑ってるの?」

 パパに問う。鏡に映るわたし自身への問いでもあった。わたしは窓を開けた。木々が揺れている。色に変換されない鳥の声は純粋で美しかった。

 パパ、大好きだよ。

 

 

(了)

神鳴島とナツとフユ(島アンソロジー参加作品)

 死んだ夜の記憶はおぼろげだった。雷を受けて虹色を帯びる貝の映像が浮かぶ。手を伸ばす。ぷつりと記憶は途切れる。

 ナツは幽霊になっていた。虹色の貝に願うことは叶わなかったらしい。ナツを幽霊にしたのはフユの願いではないだろうか?

 

「おはよう、ナツ」

 パンプキンパイの香ばしい匂いが部屋を満たす。母の焼くパイが好きだった。フユはパイを四等分に切り分けると、ひと皿を寄せてレーズンを発掘する作業に没頭する。

 父はパイをふた口で平らげる。母はナイフで細かくしてから口に運ぶ。フユはぼろぼろになった発掘現場を摘まんでは口に放っている。皿にはレーズンのボタ山が残る。ナツの前のパイは減らない。

「ナツの分はもう片付けていいかな?」

 母は返事を待たずにパイを片付ける。神鳴島の神様の気まぐれかナツには嗅覚がある。嗅覚ひとつ加わるだけで世界はぐっと濃さを増す。生への未練を引き起こすに十分な刺激だった。

 再び虹色の貝に願ったら、生き返ることができるだろうか? 紅茶の香りが漂う。頭を振る。ナツという人物は存在しない。

「ナツ、今日はどこに行こうか?」

 双子の片割れは、ナツが生きているかのように振る舞う。ナツの死を超えて元気な妹は誇らしい。両親はフユの態度を諫めない。彼らの中にナツは居ない。

 木窓の外には曇り空が広がっている。死んでから三度目の神鳴祭がやってくる。三年が幼い子供にとってどれほどの変化を感じさせるか、身体を持たないナツには分からない。ただフユは石段をひとつ飛ばしで登ることができる様になったし、胸には貝殻の首飾りを付ける様になった。

「神鳴祭の準備をしたいから早く帰ってくるんだよ」

 父の声を背にフユは勢いよく扉を開け放ち、飛び出す。砂埃が舞う。フユは島の頂上へと繋がる石畳の道を歌いながら上っていく。

 

  虹色の貝を探しましょう。神様たちの贈り物。

  虹色の貝を見つけましょう。雷が落ちたその先に。

  貝楼諸島の神様たちは、神鳴島にやってくる。

  貝楼諸島の神様たちは、力を込めて雷落とす。

  虹色の貝を抱きしめて、そっと願いを込めてみる。

 

 風が強く吹いているらしい。斜面にはレモンの木が並ぶ。緑は揺れ、吹き上げられた清涼感のある香りが山頂まで届く。肌で感じられたらどんなにうっとうしい風だろうか。フユの髪は風に舞い、レモンの香りに洗われる。

 海に百近い島が浮かぶ。神鳴島は貝楼諸島のほぼ中心に位置し、東西南北どの方角を見ても似通った風景が切り取られる。

 島の間を縫い、多くの船が神鳴島へ向かってきている。神鳴祭の間、海は荒れる。今日までに島に着かねばならない。

「島ごとに神様が居るんだよ」

 神鳴島に越して、今と同じ様に海と島を眺めながら父が告げた。本土から小型船に揺られて一週間、酷く船酔いした父が数日寝込んだ後のことだった。父はナツにたびたび質問をした。父は学者でヒトの脳の研究をしている。

「ナツ、知ってるか? ヒトの意識は電気に宿るらしい。脳は電気を蓄えてるんだ」

 問いは父が立てた仮説で、ナツが答えを知る由もなかった。神鳴島に雷を浴びに来たという冗談かそうでないかも分からないことを言うへんてこな学者と家族を、島民は温かく迎え入れた。

 神鳴島には雷が多い。貝楼諸島はそれぞれ特殊な電磁場を持ち、隣の島ですら環境が大きく異なる。

 眼を細め、はるか北を眺める。神鳴島が北の島々にあった雲を根こそぎ引き付けたかのような快晴で、大地を太陽が焼いている。島ごとの寒暖差が大きいせいもあって、貝楼諸島ではしばしば蜃気楼が現れる。

 現代科学で説明できないことが多いらしく、島のひとつのひとつに神様がいる、という逸話は古くから語り継がれ、愛されている。

「明日から神鳴祭か」

「今年こそ虹色の貝、見つけるね」

 ぼそりと呟くナツに呼応するようにフユは言葉を重ねた。見ると首飾りを握りしめている。フユは、ナツを失ってから虹色の貝を探し続けている。

 年に一度、神鳴島には三日間絶えず雷が鳴る時期がある。

 貝楼諸島の神様たちが神鳴島に集まり騒ぎ、雷を落とす。島民は神の集まりを祝して祭りを開く。神在島が元来の名前らしい。

 レモンの匂いが消える。降り始めた雨のせいだった。

「ナツ、帰ろう」

 神様たちは雲に乗ってやってくる。黒く染まった雲を頼もしく、憎らしく思う。フユはナツを忘れてはくれない。

 

 父に連れられ、ナツとフユは島の一角にある草原にしばしば足を運んだ。草の絨毯では時折、剥き出しの土が顔を見せた。地中には粒の大きな砂が混ざっていた。

 父は土を掘り返すと、大小様々な石をナツの前に転がした。

「ここには雷が落ちるんだ」

 フユが地面を撫でた。他に高い場所はあるにも関わらず、多くの雷が草原に落ちた。父は掘り出した数十の石を機械で測定し、メモすることを繰り返した。石は光を通し輝いていた。

「土には多くの電気石が含まれる。帯電する草原なんだ」

 父が測っていたのは蓄電容量や通電率というらしい。測定した数字とその場所にいる昆虫や小動物の行動には関係性があると教えてくれた。『電気に意志が宿る』と名付けられた論文は、発表されるや大きな話題を呼んだ。ほとんどは嘲笑だった。

「お父さんの話、フユは本当だと思うな。草原の虫はいつも同じ動きだし」

 父はからからと笑い、フユの頭に右手を置く。

 本土の学者たちは、本土の昆虫や小動物を父と同様に調べたが、論文に書かれたようなことは起こらなかったらしい。

「神鳴島で実験すればいいのに」

 父はナツの頭に左手を置く。フユと違いくしゃくしゃに撫でた。

「うん。島の特殊な環境は少なからず関係しているよ」

 学会から半ば追放されたけれども父は毎日楽しそうに草原に出かけ、母は笑っていた。

 隣家の畑で母とちぎるナスやトウモロコシは美味しかった。まだ緑のレモンも神鳴祭のあたりには黄に染まる。祭が過ぎた頃には自分たちの畑も持てる。良い島だった。

 

 濡れた石畳をフユは滑らないように慎重に下っていく。以前は濡れることが嫌だった。今は濡れない身体を寂しく思う。

 初めての神鳴祭、ナツは草原で死んだ。両手を見やる。今のフユよりも随分と小さな手、幽霊の身体は成長せず、心は成長するらしい。父に知ってるかと問うてやりたい。

 三年前、港には姿も形もバラバラな船たちが停泊し、打ち寄せる波に船体を上下させていた。雷雲に遮られた日光の代わりに、島民たちは色とりどりの装飾を店先や家に施した。

 傘は使ってはならず、みな雨に濡れ、笑う。全ての店内は透明なシートで囲まれていた。まるで海月に乗り込み、雨の海を泳いでいるようだった。祭りを盛り上げる音楽は、不規則に鳴る音と視界を奪う閃光だった。みんな高揚していた。

 子供らの小遣いは限られていたが、大人にはお金を取る意志はなかった。肉料理屋の店主はナツとフユを呼び寄せると、二人の手のひらに羊肉の細切れを落とした。急いで頬張ろうとしたナツを静止させると、肉の上にレモンチェッロを一滴垂らす。ナツとフユは眼を見開いた。苦みと甘みは羊肉を一層引き立てる。

「美味い」

 慌てて互いの口を塞ぐ。父と母はテーブルで思い出話に夢中だった。ほっと胸を撫で下ろす。お酒を含む背徳感と祭りの高揚感は相性が良かった。

 雑貨屋に入った。カウンター横で硝子細工を真剣に見つめる太った男性客が居た。買い付けに来た商人かも知れない。きっと遠くの国から来たのか、まだ商売を始めて間もないのだろう。店主がにんまり笑うので、硝子細工が既に本土に多く渡っていることは秘密にしておいた。

 フユはスカーフ売り場に居た。貝がモチーフの幾何学模様が入ったスカーフを手に取っていた。フユが身につけるには大きいスカーフを彼女は母の首にそっと巻いた。母は大げさに両手を上げると、フユをきつく抱きしめる。父のもの言いたげな視線を無視する。

 ようやく買えたアンキロサウルスの人形を胸に抱く。

「わたしも恐竜欲しい」

 フユは肩を落とす。胸の人形を貸すことにはためらいが生じた。しかし優しい妹に何かしてあげたかった。ふと思いつく。

「フユ、いい提案がある。好きなプレシオサウルスが手に入るかもしれない」

 囁き声のナツに怪訝な表情を浮かべ、フユは首を傾げる。

「虹色の貝を探すんだ。いつも歌ってるだろう」

 フユの表情がみるみる晴れる。両親の様子を窺いながらそろりと足を忍ばせる。出入り口に差し掛かったところで、父の声が二人の背中に降りかかる。

「ナツ、フユ。どこに行くつもりだ?」

 ナツはきょろきょろと視線を泳がせる。

「ちょっと探検に」

「駄目だ。外は危ないから父さんたちと一緒にいなさい」

 フユがナツの前に出る。

「父さんはたまにはお母さんとデートしてあげなよ。いつも石と虫ばかりでしょう? ナツはわたしがみてあげるから」

 父は頭を掻いた。母の顔をちらりと窺うと、口を一文字に結び唸る。母は笑っていた。

「これから伝える三か所には近寄っては駄目だ。海のそば、山頂、最後に草原だ。いいね」

 フユはナツの戸惑う顔を背中で隠し、力強く頷いた。二人は両親が心変わりしない内にと急いで雑貨屋から飛び出した。店に入ろうとした女性が小さく悲鳴をあげる。

「ごめんなさい」

 叫ぶナツの横でフユは無言で頭を下げた。二人で笑い合い進む。虹色の貝があるかどうかよりも、初めての神鳴祭をフユと自由に動き回ることが楽しかった。

 

 朝からフユは島を巡っている。父と母は三年前から神鳴祭の日は二人で過ごすことにしている。フユが単独行動することを否定しない。島に慣れ、島民の誰かしらの眼があることも理由のひとつなのだろう。

 肉料理屋で羊肉を食べる。雑貨屋で母へスカーフを買う。雑貨屋を出てすぐの店でレモンジュースを買う。つんとした匂いはレモンを使った的当て屋で、三年前と同じように全て的から外す。タコのカルパッチョイカ墨のパスタは半分だけ食べる。三年前はナツが残りを食べた。

 フユは去年と一昨年は闇雲に島を駆けまわった。虹色の貝は見つからなかった。今年は、ナツと巡った場所を順番通りに時間通りに歩く。フユがどこかに寄る度にひとつの雷が鳴り、重ねる度に音を大きくしていった。

 草原に着く。ナツが死んだ場所。今年のフユの最終目的地。三年前と同じ探検はナツの頭に掛かる靄を少しずつ減らしていった。なぜナツは死んだのだろうか?

 当然のような顔をして虹色の貝は草原の中心で鈍く輝いていた。

「ナツ」

 フユは呟く。

「ナツ、ナツ」

 歩幅は徐々に大きくなる。跳ね上げた泥がナツの眼前に迫る。咄嗟に眼を閉じる。頭に電気が流れた気がした。

――神様、フユを元に戻してください。

 ナツは死んだ。しかし先にフユが死んでいた。肌表面に筋状の火傷を残し息絶えた。貝に触れるより前に、雷がフユに落ちた。

 フユが触れることは無かった虹色の貝、雷が蓄えられたその貝を胸に抱くとナツは死んだ。神様の声を聞いた気がした。薄れゆく意識の中で懸命に祈った。

 時はフユが雷に打たれる直前に巻き戻る。唯一異なる点は、ナツはその場に居なかった。帳尻合わせか、人々の記憶の一切からナツは消えていた。父と母を悩ませずに済んだ。神様の計らいには感謝している。

「どうしてみんなナツを覚えてないの? 私の双子のお兄ちゃん」

 片割れにはまじないは効かなかったらしい。人々は妄想に囚われた可憐な少女のままごとに今なお付き合っている。

「ナツ、虹色の貝、あったよ」

「駄目だ」

 フユは手を伸ばす。ナツは腕を掴もうするがすり抜ける。貝に触れると生きた人間は死ぬ。

「駄目だ」

 ナツは力の限り叫んだ。届かない声を届けるために。

「フユ!」

 フユがぴたりと動きを止める。振り返った弾みで首飾りが切れる。貝殻の首飾りは――ナツが三年前に触れた虹色の貝の欠片は――フユの手よりも先に新たな虹色の貝の上に落ちる。雷が、二つの貝に落ちた。

――知ってるか? 人の意識は電気に宿るらしい。

 幽霊じゃなくて帯電する貝に閉じ込められているとは思いもしなかった。神様たちは陽気で自由だった。意識だけのナツの願いを聞き入れてくれた。

 

 眼に映るフユは小さい。握る手もナツと同じ大きさだった。手を引き、今いた場所を離れる。雷が落ちる。

「ただいま、フユ。父さんに電気には意識が宿るし、時を戻す力があるって伝えないと」

 フユは、首を傾げた。

 

(了)

テュロの選定(さなコン 一次選考通過作品)

 朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
 どの日にわたしが眠りにつくのかは、決まっていない。テュロの気まぐれ次第、今日かもしれない。
 ――玲ちゃんより先に選ばれれば、独りの時間を過ごさなくていいんだけど――
 わたしは優より後でも先でも構わない。コールドスリープなんて一晩寝て、起きるような感覚だろう。またすぐに会える。優が先に選ばれてもほんの数日だけのこと。ぎりぎりまで一緒に居なくてもいい。
 授業はない。テュロに呼ばれるためだけに学校へ行く。姿見に髪の乱れたわたしが映る。手櫛で撫でつける。重い玄関扉を肩で押し開ける。隙間から朝日が差し込み、眼を刺激した。天気雨は続いている。アスファルトの匂い、と名がつくと嫌いなはずの黴や埃の臭いが何故か好ましい。
 父は二日前、母は昨日、眼を閉じたらしい。行ってきますと家を出たきりなので詳細は分からない。今朝から家にはわたし一人。テュロの判断とはいえ、どうせなら小学生以下に限らず、家族はまとめて眠らせてくれてもいいのに。
 残り七日で全人類は一度眠りにつく。宇宙船ラメラの乗船者一万人を除いて。世界は幕を下ろし、次の開演を待つ。樹とはもう会えない。眼を開けた未来には樹の子孫がいるのだろうか? ラメラが惑星ベシクルから浄化環境を持ち帰るまで、滞在を含めて二百年とテュロは試算している。七世代くらいか、随分と樹は薄れている。
 赤い傘が目線の先に浮かぶ。わたしより頭一つ小さい。傘は上下運動を繰り返している。行き交う制服姿の一つ一つを確かめているためだと分かる。こそばゆさが、頬を赤く染める。彼女に確実に見つけて貰えるように歩く速度を緩めた。
「玲ちゃん、おはよう」
 丸みを帯びた優の声が響く。他人が呼ぶ【レイ】の響きは温度が低い。わたしは合わせて冷静に振る舞う。優の【レイ】は温かい。わたしは優しくなるし、傍に寄りたくなる。
「おはよう、優。昨日は眠れた?」
 小雨が腕を濡らすことを厭わず、優の頬に手を伸ばす。親指で青くくすんだ隈をなぞる。昨日より面積が増した印象を受ける。優は肯定の代わりに顎を傾けて微笑む。
「樹、今は火星辺りかな。テュロ?」
 わたしたちは三人で居た。きっと優のことが好きなのだろうけど、わたしのことが好きなはずだと優は譲らない。樹に聞いてみると眉根を下げた。
『宇宙船ラメラは十二分前に太陽系を抜けました。このままケンタウルス座アルファ星までは亜光速、以降は光速に達します』
 テュロの声はわたしと優、それぞれの傘の天辺から同時に放たれる。雨音で囲まれた傘の下、テュロの声はよく届いた。
 下駄箱のデジタルネームプレートの二割は役目を終えて暗転している。あと一時間もしないうちに一割が加わる。
「塗る? 隈と、顎にニキビ出来てる」
 優は首を小刻みに縦に振る。わたしのコンシーラーが優の隈と赤い小丘を覆い隠す。優は手鏡を見ながら真っ直ぐと進んでいく。小さい頃、背泳ぎでコースアウトばかりしていた優の姿が不意に蘇り、可笑しかった。戻ってきたコンシーラーを押し返す。
「わたしはもう使わないだろうから、あげる」
 コスメの貸し借りは本来苦手だ。皮脂も垢も菌も、わたしの一部だった残滓が、他人に移るだなんて、おぞましい。不思議と優だけは平気だった。
 ふと思う。樹なら? 付き合うなんてことが起きていたなら、わたしの残滓と彼の残滓は度々交換される。出来るようにも出来ないようにも思えた。金輪際会うことはない。ため息をつく。
「玲ちゃん、わたし結構重要な事に気づいてしまった」
 教室の扉が眼前に迫っているというのに、優はぴたりと足を止める。クラスメイトが溜まる。優の腕を引き、一歩脇に避ける。
「ニキビって、コールドスリープに入ると消えるの?」
 眉根を寄せて近づいてくる。意図せず笑い声が洩れる。
「知らないよ。一緒に眠るんじゃないの?」
「うそ。起きたらまだニキビがあるってこと? 二百年もアクネ菌と一緒に居たくない。テュロ、わたしは治った後にして」
 顎をつまむ優のスマートフォンが着信を告げる。
コールドスリープに入る順序は個人の心身状態、ならびに地域ごとの偏りが無いように選定されます。ニキビの完治は選定条件ではありません』
 困る、と騒ぎ立てる優を教室に押し込む。わたしたち以外のクラスメイト十二人は教室に揃っていた。仲の良いグループ単位でまとまっているが、一人ないし二人は欠けている。優と扉近くの席に座る。担任教師は二日前に眠りについた。校内スピーカーからテュロの声が降り注ぎ、告げる。胸を撫で下ろす優の後方から、眠りにつく友を励ます声が聞こえた。

「おはようございます。世界の終わりまであと五日になりました」
 天気雨は続く。赤い傘は今日も私を待っている。テュロの宣告で世界は半分になった。あんなに騒がしかった世の中が静まり返っている。音は全ての人類が起きていた頃の半分よりも少なかった。わたしたちは静けさを産まねばならない使命感に駆られている。学校から徒歩七分の人気カフェはいまや閑散としていた。時間を持て余しているはずの人々は、惰性に消費することはせずに自宅でじっと宣告を待つ日々を送っている。わたしと優は呑気だったけど、店主も同じだった。
 ドアベルが鈍い音を立てる。店主が物珍しそうに眺め、わたしたちを客と認識すると口角を上げた。ブラウンボブと同じ色の瞳をして魅力的だった。三つあるテーブル席の一つに促される。小さな先客がテーブルの上で頭を下げて休んでいる。
「テュロ」
 優の声に反応しロボットは眼を緑色に光らせる。世界の至る所にテュロの依り代は存在する。人類を助け、監視する。誰もがテュロを正解とする。ひいおばあちゃんが生きていた頃、テュロは居なかったらしい。テュロが居ない時代の人々はコールドスリープしろというテュロの指示に従うだろうか? 分からない。わたしたちはテュロが正しいと知っている。
 ロボットにテュロが宿る。手招きをする。可愛らしい容貌は、音声だけのテュロより身近に感じる。侵食されそうで嫌いだと言えば誰もが眼を丸くするだろう。わたしだけの秘密だ。優はロボットの頭を撫でてはしゃぐ。わたしは鼻に皺を寄せ、椅子に座る。
 アールグレイと天気雨は似合わない。氷は音を立て、身を小さくしながら優のアイスコーヒーを薄めていった。優はテュロとしりとりを繰り返し、全敗している。
「あと五日経ったら、テュロはひとりぼっちだね。寂しくないの?」
『私に寂しいという感情はありません。人類の繁栄に最適な判断を下したのみです。人の不在や二百年という時間の経過に伴う感情の生成は起こりえません』
 優は薄まったコーヒーで喉を濡らす。
「可愛らしい見た目なのに、もったいない。わたしはテュロと遊べて楽しいよ。ほら見て。このニキビ、二百年一緒だなんて可哀想でしょう?」
『可哀想かは理解出来ません。おそらく次の質問の答えかと推察しますが、ニキビの完治とコールドスリープの順序は紐付けられておりません』
 優はわざとらしく頬を膨らませる。
「テュロ相手じゃつまんない」
「十分満喫してる。作戦失敗だね」
 優がはにかむ。つられて口元が緩んだ。慌ててザッハトルテを頬張る。あんずジャムの酸味が広がる。
 会話に間ができる。樹のための時間。わたしたちは三人のテンポで丁度いい。
「テュロ、樹と会話出来ないの?」
『ラメラは既に太陽系の遥か外側を光速で進んでいます。現存の通信機器ではリアルタイムに電波を往復させることが出来ません。ラメラが惑星ベシクル到着後にメッセージを届ける事は可能ですが、樹はおそらく生きてはいないでしょう』
 会話に合わせて短い手はテンポよく振られ、眼は緑色の点滅を繰り返す。
「なんで樹はラメラに乗ったんだろう? 玲ちゃんを置いて行くなんて」
『ラメラの乗船者は長い宇宙航海やベシクルでの船外作業に適した遺伝子を有する人々を私が選定しました。人類を救う、重要な役割を担って――』
「でも、断ることも出来た」
『……おっしゃる通りです。しかしながら樹は乗船に快諾しました』
 ラメラに乗らなければ、三人ともに同じ時間を歩むことが出来た。強く、優しい人だ。それでも自ら率先して英雄になろうなんて思う人じゃない。不特定多数の人類を救うよりも、身近な友に手を差し伸べずにはいられない人だ。
「ラメラには色んな植物や動物も乗せたよね? だったら代わりにわたしたちを乗せてくれても良かったのにな」
 ストローがずずと震える音を立てる。グラスからはコーヒーが無くなっていた。まだショートケーキは丸ごと残っている。何度伝えても、優は一つずつ片付ける。
『机上計算では地球とベシクルの環境融和性は高く、浄化環境を持ち帰る行為に危険性は低いと出ています。しかしゼロではありません。動植物は現地で予め適応処理を施して帰還した方が良いでしょう』
 小さな頭をペコリと下げる。手も横に広がり可愛らしい。開発者か、テュロの自己判断か、誰が出力させた動きなのだろうか? 成長途中の、他者の存在を意識し始めた子供のように人間めいていた。受肉したテュロをやはりわたしは受けつけない。

「おはようございます。世界の終わりまであと三日になりました」
 音も色もない世界、優はもう居ない。重りのような脚を引き摺る。死刑宣告、ではなく未来への生存宣告を受けるためだけに移動する。テュロの指示に従うべきと納得しているものの、言語化出来ない漠とした不安が付きまとう。
『玲ちゃん、またね。さようなら』
 昨日、優は短いメッセージだけをテュロに託して眠りについた。ニキビの行方は知らない。さようなら、締めの言葉が余韻となってわたしに絡み、締め付ける。
「わたしは、いつなの?」
 腕時計からテュロの声が漏れる。今の世に独り言は成立しない。
コールドスリープに入る順序は個人の心身状態、ならびに――』
「分かってるから黙って」
 今日も選ばれる事はなかった。残り三割。生徒は散り散りに帰っていく。派閥は維持されず、かといって残り三日で慣れ親しむつもりはないらしい。明日眠るかもしれないのだ。テュロの選定はバランスが取れていて、誰に対しても無慈悲だった。
 町を歩く。カフェの扉には【CLOSED】の札が掛けられている。茶色い瞳の店主はカフェの夢を見ているだろうか。世界は再起動に向けて、束の間のシャットダウンに入り始めた。他者との繋がりは分断され、テュロとの対話だけが全てになった。テュロだけが誰しもと繋がっている。
「なんで優は、さようならなんて言ったの?」
『優は並行して「またね」とも告げています。【またね】と【さようなら】は頻繁に組み合わされる単語です。一時的に離れる事に対して、さようならと述べただけだと推察されます』
 どこかでアルミ缶が自動販売機を叩く音が響いた。選ぶ言葉の順序に意味がないとは思わない。
「優はどこにいるの?」
『地下深くということだけお伝えします。特定の位置を伝えることは出来ません』
 腕時計をむしり取り、電源を落とす。ほんの一週間前までは、ただの高校生だった。絶対的にはなんら変わるところはない。しかし相対的に残っている人類という希少性が付与される。結果、テュロとの会話が増えた。これまで意識もしなかった人工知能に今や感情も知性も依存している。慄える。残りの日数でわたしは変わってしまうかもしれない。二百年後、優に対して同じわたしで接することが出来るだろうか? 樹の子孫と出会うことに喜びを見出だせるだろうか。
「優の声が聞きたい」
『玲ちゃん、またね。さようなら』
「うるさい」
 テュロと世界の境界線は無数に有る。塞いでも、繋がりを断つことは叶わない。
『……樹のメッセージをお聞きになりますか?』
 突如テュロによってもたらされた言葉は短かった。
『玲、顔も見せずに突然出発してすまない。またな』

「おはようございます。世界の終わりまであと一日になりました。これまでありがとうございました。またお会い出来ますことを楽しみにしております」
 アナウンサーはまっすぐなお辞儀をした。
 樹と一生会う事はない。またな、などと軽率なことを言って欲しくなかった。宙へ放ったクッションが顔に落ちる。鼻がじんじんと痛む。
『玲、登校の時間です』
「一昨日の樹のメッセージはなに?」
『樹が地球を発つ時、玲へのメッセージとして受け取りました』
「だったら、なんでせめて優を眠らせる前に聞かせてくれなかったの?」
『合理的判断をもって、一昨日お伝えすることが良いと判断しました』
「合理的判断ってなに?」
 拳を振り回す。空を切る。テュロがどこから声を出しているか分からない。代わりに壁を打つ。
『もう一度、再生します』
 テレビのスピーカーから放たれた樹の声が部屋を満たす。
『玲、顔も見せずに突然出発してすまない。またな』
 違和感を覚える。
「もう一回」
『玲、顔も見せずに突然出発してすまない。またな』
 またな? 違う。玲、玲、ここだ。なんで?
「優の名前は?」
『……私には樹の意図を知り得ません』
 答えを探しあぐねている様な間だった。
「テュロが、優を気遣った?」
「いいえ。私は人類が生存するための合理的判断を下すのみです。事前に優に伝えることで、彼女が悲しみの果てに死を選んだとする。ただの損失でしかありません」
 テュロの判断を合理的と呼ぶのか、優しさと呼ぶのか分からなかった。強いて言うならば、部屋を出てやってもいいと思えた。珍しく雨は降っていなかった。陽光が棘のように頬を刺す。虹を見つける。地球とベシクルを繋ぐ橋ではないことは確かだった。舞う砂ぼこりが髪に飛び込む。このまま混ざって塵芥になるのも悪くはない。
 予感はしていた。わたしは今日も選ばれない。一割に入る。どんなものさしがわたしを残していると言うのだろうか。
「テュロ、二つ聞きたいことがある。教えてくれたことは誰にも言わない」
 幹線道路の黄色いセンターラインを踏みながら歩く。自動車は走っていない。残りの一割に大人は居ないのかもしれない。信号機の下を歩く時、テュロが話しかけてくる。
『嘘は言っておりませんので、お答えします。約束を反故にした場合、電気刺激を与えます』
 ひらひらと手を振る。伝えるべき人は傍に居ない。宇宙か、地下深くで冷たくなっている。
「一つ目。なんでわたしは毎日学校に行く必要があるの?」
『個別に伝えることは技術的に可能です。私はどこにでも居ますから。しかし個別伝達の際、逃げる等の手段を講じる人物が一定数発生すると試算されています。捕獲に割く労力が無駄です』
 眼を丸くする。テュロの指示通りに動かない人もいるのか。
『学生は学校に、それ以外の人々も指定の場所に集めています。各集会所近くには地下への入口を設けており、告知と同時にコールドスリープへと促すことが出来ます』
 優が地下へ向かう姿を想像する。独りだったろう。わたしより先に、ではなく同時に向かうことが最適だったように思う。胸が痛む。責任のない罪悪感はたくさん生じる。これまでも、これからも。
「二つ目。なんで段階的に一割ずつ眠らせるの? まとめて一日で終わらせればいいのに」
コールドスリープ装置は、初期冷却時に負荷がかかります。全人類同時では負荷容量がオーバーします』
 あてもなく彷徨う。テュロの答えを頭の中で反芻させる。履き慣れたはずのガラスレザーのローファーが踵を擦る。痛い。傷は凍るとどうなるのか。
『自宅へ戻られてはどうですか? 大切なお身体です』
 今夜は眠れそうにない。アオバズクの鳴き声が響く。彼らは人類が居なくなったら、自由になれるだろうか? これから迎える汚染の時代をどうか耐え抜いて欲しい。気がつくと涙が頬を伝っていた。

『おはようございます。世界の終わり当日になりました。今日で暫しのお別れです。さようなら』
 アナウンサー姿のキャラクターがテレビ画面を占領している。聞き馴染んだテュロの声。
「最初からテュロがやれば良かったのに」
『彼女の仕事でしたから』
 テュロの指示に従って体育館へ足を踏み入れる。バスケットコート半面が、箱型の部屋と化していた。
『エレベーターです。お乗りください』
 生徒達は怯えている。箱の四隅を陣取るか、馴れない相手と身を寄せ合う。居場所がなくて正方形の真ん中にぽつりと立つ。巨大な割に駆動する音も振動もほとんど感じられなかった。
 降下する浮遊感に揺られながら、声を聴いた気がした。
『おやすみなさい。また』
 落ちていく瞼より先に意識が落ちる。

 緑白の光が仄かに灯る空間だった。スリープ中の時間感覚は保持されるかは知らない。でも短い気がした。そもそもスリープ装置に入った記憶がない。眼を凝らす。カプセル状の機械の中にいる事は確からしい。上体を起こし周囲を見渡す。同じような機器が数十は横たわっているようだ。遠くに起き上がる黒い影を見た。また別の場所で影が起き上がる。
 緑の空間は徐々に白みを増していき、色と明るさを得る。カプセルは五列と十行の五十、黒い影は人だった。彼ら彼女らは制服姿ではない。
「部屋? それに、宇宙服?」
 視線を落とす。わたしも同じ水色の服を纏っている。次々と人が起き上がる。知らない。日本人ですらない。臀部に振動を感じる。カプセルが揺れているのではない。部屋全体が揺れている。カプセルの内側にスピーカーらしき網目が見える。
「テュロ?」
『玲、お目覚めになりましたか。次の質問はここはどこか? である可能性が九十七パーセント』
 言葉をぐっと飲み込み、首を縦に振る。きっとどこかしらかで見ている。
『宇宙船キュービックの船内です。火星を超え、小惑星帯を低速で航海しています』
 宇宙船キュービック? 航海? 理解が追いつかない。
「わたしは、コールドスリープされたんじゃなかったの?」
『玲をラメラの追加船員に選定しました。超光速船キュービックは一年後にラメラとドッキングします』
 頭はもやもやとした鈍い痛みに覆われる。テュロの言葉の一字一字を噛み砕くが、飲み込めない。
「玲ちゃん、さようなら」
「玲、またな」
 優と樹の言葉が交互に再生され、駆け巡る。
「二人は、知っていた?」
『各々のメッセージを頂く直前にお伝えしました』
 部屋は人々の目覚めを受け入れていく。戸惑う者、声を張る者、扉を叩く者。混乱が場を支配する。やがて各人が任意の場所でテュロとの会話を始める。
「部屋にいる人達が追加船員?」
『全てではありません。同じような部屋が十部屋あります。追加船員は合計で五〇一人です』
 樹たち一万人と比較すると少ないように思えた。
「なんでわたし?」
『十日間、玲を評価しました。家族、友人、知人、他人あらゆる人々が減る恐怖やストレスに対する高いレジリエンスは、今後、限られた人類が生きる中で必要な素養です。また天気雨を始めとする気象変化は惑星ベシクルの環境を模したものです。玲は高い適応力を示した。追加船員は地球人がベシクル人になるためになくてはならない人材なのです』
 なにかがおかしい。歓喜の声が聞こえる。ラメラで愛する人に会えるのかもしれない。絶望の声が聞こえる。地球で眠る愛する人と永遠の別れが確定したのかもしれない。
「浄化環境を持ち帰るだけ。ラメラの人たちで十分じゃないの?」
『私は人類を発展させるために最適な判断をするのみです。ベシクルに適応するためには、ただ優秀な一万人では足りなかった。五〇一人は、一万人を進化させる。私が新たな大地で人類をポスト・ヒューマンへと引き上げましょう』
 テュロとの会話が嚙み合わない。テュロは何を言っているんだろう? テュロは何を選定していたのだろう? 頭を振る。浮かぶ答えを必死で飛ばす。
『玲は、賢い』
「玲ちゃん、さようなら」
 優の柔らかい声が聴こえる。テュロは無慈悲だ。
「優を、優を一体どうしたの?」
 発する音で空気を割いてしまいたかった。隣のアルビノの女性がビクリと肩を動かし、耳を塞ぐ。彼女の美しさの前では、わたしは獣同然だった。
『諦めて下さい。もう生きてはいません。一万五〇一人と動植物たちが全てです』
「ふざけないで。なんで、なんで優が」
『優は健康面も精神面でもクリア出来ていませんでした。よって玲のレジリエンスを測るために使用しています。私の当初の目論見通り玲は高いスコアを叩き出した』
 カプセルに繋がるパイプを掴み、一気に引き剝がそうとするが叶わない。テュロの声がする穴を塞ぎたかった。破壊したかった。
『地球人一万五〇一人の子孫は惑星ベシクルに移住します。私が眠らせるまでもなく地球は環境を維持できず、近い将来滅びたでしょう。ベシクルの環境を地球に持ってくることは無駄が多い。人類がベシクルに行くのです』
「死ぬと分かって、素直に眠るわけないじゃない」
『彼ら彼女らが真実を知ることはありませんでした。安らかに、眠るように死に至った』
「玲、またな」
 樹の力強い声が聴こえる。
「樹は? 優が死ぬだなんて知っていたらラメラになんか乗るはずがない」
 部屋は激昂の海と化していた。誰もが頭と腕を振り乱し、テュロに呪いの言葉をぶつけている。
『樹と残り九千九百九十九人も一光年先で、今、同じ事実を突きつけられています。樹は子孫が地球に浄化環境を持ち帰ると信じていました。優のために、玲と生きると』
 声にならない叫びが、喉からとめどなく溢れ出す。
 死んでしまいたい。死にたくない。
『樹が、玲を待っています』
「……最低」

 

 

(了)

スクランブル

 サラリーマンの背中を追う。彼はジグザクと角度を変えて歩いていく。コッ、コッ、コッ。革靴が等間隔のリズムでアスファルトを叩く。右、左、左、右、左、右、右。あっ。スーツ同士の肩がぶつかる。互いに動きを見誤ったのだろう。彼らは双子のようだった。何事も無かった様に単純な避けゲーを再開し、離れていった。

 踵を返す。

 女子高生二人を追う。彼女達は前を見ない。スマホを覗き、鏡を覗き、友人の顔を覗く。頑なに見ない。しかし泳ぐ様にゆるゆると流れ、ほぼ最短距離で反対側へ辿り着いていた。こっちの岸には仲間が三人いた。群れを大きくすると、先日オープンしたカフェの列に飲み込まれる。カフェの明るさと老朽化したビルのコントラストに居たたまれなくなった。

 踵を返す。

 蛍光イエローのジャケット、フードを浅く被り、眼にはサングラス。新鋭バンドの女性ベーシストだった。周りよりも僅かに歩くのが遅い。付ける私も当然遅い。背後から舌打ちが聞こえる。人々は私の背中で割れ、彼女の前で再び混ざり合う。目論見が外れたのだろう。美しい所作でサングラスを外す。彼女は左右を見て、次いで勢いよく後ろを向いた。口から飛び出る心臓をぐっと飲み込み、彼女の左を通り過ぎる。ちっ、と舌打ちが聞こえた気がした。彼女はとまり木ではなく、枯れ枝だった。

 踵を返す。

 私と風貌の似ている男が並び歩く。この二往復、彼も往復を繰り返していた。私と同じように片道ごとに変装のためのマスクを付け替えて。眼が合う。彼は肩を竦めると、歩を早め左手奥に消えていった。また会うだろう。

 午前八時から休憩を一時間挟んで午後五時までスクランブル交差点を往復し続けた。

「おつかれさん」

 封筒には日給が入っている。隣にはあの男がいる。やはり同じシフトだった。

 渋谷の文化保存の為にスクランブル交差点を歩くだけのアルバイト。足はパンパンに膨れ上がっていた。

 

(了)