――なぜ神様はあんな場所にゴールがあることを許しているのか?
試合のたびにアコスタはぶつくさと呪いを吐いていた。それでいてビッグセンターたちを巧みなステップで翻弄してベビーフックを沈めるものだから、得点以外のスタッツは特別褒められたものでもないのに観客たちはこの小さなインサイドプレーヤーを愛した。
だからこそ、バスケットボールが水のフィールドを得ることで高さのハンディーキャップが失われたとき世界は湧いた。
『アコスタの時代がやってくる!』
莫大な資金と技術が投入された。進化したバスケットボールはスフィアボールと命名された。板と突き出したリングという不可思議なゴールは、水中に映し出される球体へと変貌した。観客たちは立体的な戦術の豊富さを歓声と怒号を持って楽しみ、時間と金はスフィアへと流れた。
選手たちは――とくに二メートルに満たない者はこぞって――これまでより高い年俸を握りしめ、放物線を描くプレーからおさらばすると新たな英雄となった。つまりはボクもそのひとりということだ。
「オハラ、ようやくプレーオフ進出だな」
会場入りしようとしていたボクに男が声をかけてきた。その低い声を忘れるはずがない。試合中のうざったいぼやきが瞬時に思い起こされる。ボクは振り返って声の主、アコスタと拳をぶつけ合った。南海岸を本拠地とする彼と会うのは久しぶりだった。
「そっちはチャンスを逃したらしいじゃないか」
「平常運転だ。調子はどうだ?」
「今年はボクたちクオリタナ・オルカが優勝をかっさらうよ。もしかしてゲスト解説できたとか?」
「そんなわけあるか。息子がな、オハラのプレーを見たいんだと」
アコスタは鼻に皺を寄せて後方を指した。その先に壁から半分だけ顔を出す少年がいた。ボクが手を振ると、ひゅっと壁の奧へ顔が引っ込んだ。アコスタは溜め息をつくと、腕の端末を操作しはじめた。
「俺と違って引っ込み思案なんだ。ほらティム、顔出さなくていいから言いたいことくらい伝えとけ」
『……が、頑張って。応援してる』
自然と顔がほころぶ。ボクは端末ではなく壁に向かって大声で感謝を伝え、試合会場に向かった。
青く透明な巨大直方体をぐるりと囲うように観客席が設置されている。
『背番号31、ウィリアム・オハーーーラッ!!』
コールに合わせて会場中からボクの名前が叫ばれる。フィールドへ繋がる透明チューブがボクをスフィア・リキッドで充たされた直方体の内部へと運んだ。センタースフィアあたりをぐるりと泳いで呼吸器《エラ》と推進器《ヒレ》の調子を確認して、ボクは観客席へと手を振った。
両チーム六人ずつ、合わせて十二人がフィールドに入った。サポーターの声援はフィールド内にも伝えられる。ホームチームのオルタボールで試合は開始される。開始ブザーの前にボクは不可侵エリアぎりぎりの位置でディフェンスを背負った。
開始の合図と同時に、鋭いパスがボクに通った。セットプレーでくると油断していたのだろう、相手チームのヘルプは間に合いそうにない。ボールを保持したボクは左回転方向に小さなフェイクを入れた。背中の感触で相手ディフェンスが重心を左に動かしたことを感じ取る。
素早く右回転に切り替えボールを左手に渡して、シュート体勢に入る。遅れたディフェンスは大慌てでヒレを掻きシュートコースを塞ぐ。ボクは、打たない。そのままひと掻き分、上へと移動した。完全なフリー、斜め下に放ったシュートはゴールスフィアのど真ん中を通過した。サイド・ウォールに投影されたスコアに二点が加算される。
アコスタは見てくれただろうか、彼のステップにも負けない動きをボクはスフィアで身につけた。
快調な滑り出しかと思ったが、すぐに相手に二点を返された。その後は一進一退の攻防が続いた。第二クォーター終盤、外半球エリアの外から放ったボクの3Pシュートはゴールスフィアから大きく外れた。エンド・ウォールに弾かれたボールに相手チームが触れたところで終了ブザーが鳴った。37対41の四点ビハインド、ベンチに戻ったボクは大きく息を吐いた。
ハーフタイムショーが始まった。フィールド内でチアチームは選手と同じようにエラとヒレをつけてシャチの映像と舞っている。後方の観客席に目をやると、上段席にアコスタ親子がいた。アコスタはチアチームを指しながらエラやヒレについて熱心に説明をしているようだった。
「どうした? なにか気になることでもあるのか?」
ヘッドコーチの言葉にボクは首を横に振った。
「すみません、試合には関係ないことで」
アコスタの説明を聞くティムの表情が、どこか陰っているような気がした。
第三クォーターは59対57で逆転したが、オルカはファウルでふたりの主力メンバーを欠いた。影響は第四クォーターに入ってのしかかってきた。なんとか食らいつくも二十秒を残して71対73、オルカ側はタイムアウトを取った。ワンプレーで少なくとも同点に追いつく必要があった。初めてのプレーオフはチームに想像以上の疲労をもたらした。
「ボクに考えがある」
オルカボールで試合が再開される。ガードプレイヤーが泳いでボールを運んだ。ヒレがあるとはいえパスを繋いだ方が速いが、オルカのオフェンスだけで残り時間を使い切りたかった。仲間がボクのディフェンスにスクリーンをかけた。ボクは不可侵エリアのトップ位置でボールを受けとる。
左回転のフェイク、そして右回転。残り八秒。
試合開始時と同じプレー、ディフェンスはぴたりと張り付いてきた。シュート体勢に入って上に、行かない。下へ泳ぐ。身体半分だけディフェンスとずれる。サイドスローでゴールを狙う。しかし読まれていた。ヘルプに入ったディフェンスが懸命にコースを塞ぐ。わずかな隙間を狙ってシュートを放つ。残り三秒。
苦しいまぎれの体勢から放たれたボールは、ゴールスフィアからおおきく外れて進んでいった。観客席から大きなため息が漏れた。……残り一秒。
エンド・ウォールで跳ね返ったボールは逆サイドの外半球の外に出た。そこにフリーのオルカ選手がいた。狙いに気づいたサポーターの歓声が轟く。相手チームが寄るがもう遅い。逆転の3Pシュートが放たれた、と同時に試合終了のブザーが鳴った。
誰もが息を呑み、ボールの行く末を見つめていた。願いを込めたシュートは、外れた。
ドライルームの中で、オルカの選手たちはひと言も発しなかった。乾いた熱風が送り込まれる音だけが部屋を満たしていた。ボクは抱えていたエラとヒレをそっと床に置き、指先まですっぽりと覆ったグローブを力を込めて外した。
水を吸って凸凹になった指先をなに気なくこすり合わせた。三年前まで指先に刺激を与えていたのは革製のバスケットボールのざらつきだった。たった今行われたスフィアの試合ではなく、浮かび上がるのは七年前のIBAルーキーイヤーのことだった。この一シーズンだけ、ボクとアコスタは同じディビジョンで戦った。
――どちらが優れた選手だったか?
公式記録を参照すればどこを切り取ってもオハラと記されているはずだ。しかし同じ質問を当時の街行く若者にしたのであれば七割はアコスタの名前を挙げるだろう。アコスタはそういう選手で、ボクはシンプルなプレーを愚直にこなすだけの選手だった。
初めて対戦した試合で、ボクはアコスタに吹き飛ばされた。彼のオフェンスチャージだった。
「すまんな、ルーキー」
ボクは差し出されたアコスタの腕を掴む。
「構わない。君のファウルなんだから」
ボクはユニフォームを正すと足元のボールを拾った。アコスタは目を丸くしたのちに、くつくつと笑った。
「真面目か。なあ、なんでゴールが上にあるんだと思う?」
頭上を指したアコスタはリングを睨んでいた。ボクは何も答えられなかった。それから何度もその愚痴を聞くことになったのだけど、いつだってアコスタの敵はボクの伸ばした手ではなく、その先に備え付けられたリングだったように思う。
決してボクのプレースタイルがアコスタに感化されることなどなかったが、心の方はといえばシーズンを通して完全に魅了されていた。
三日後の第二試合も観戦するため、アコスタ親子はクオリタナに滞在した。アコスタはシーズンオフとはいえトレーニングは欠かせないといい、練習終わりのボクにティムを預けるとどこかへ去っていった。
「応援してくれたのに、負けてしまった」
ティムは首を小刻みに横に振り、次もあるから、と言ったきり黙りこくってしまった。
「スフィア選手になりたい?」
ティムは小さな肩を強張らせた。ボクは苦笑いを浮かべる。
「本当はバスケットがやりたいんだろう。でもアコスタが反対している」
ティムは勢いよく顔を上げてボクを見つめた。その目は大きく開いていた。
スフィアのプロリーグが立ち上がったとき、当然アコスタには多くのオファーが舞い込んだ。しかし、いくら破格の条件が提示されてもアコスタは首を縦に振らなかった。小柄な選手が軒並みスフィアに転向したことで現在のIBAの平均身長は二メートルを超えている。二メートル未満の選手はアコスタしかいない。戦績も振るわず報酬も落ちたが、いまだ現役でインサイドプレーヤーとして活躍している。
「アコスタだってスフィアをやるべきなのにな」
ボクはティムにぽつりぽつりと小さなインサイドプレイヤーの昔話をはじめた。アコスタはティムにバスケットをさせていいか迷っている。だからボクに判断させるために連れてきた。ずるいな、と思う。ボクはスフィア選手で、バスケットに戻ることは二度とない。でも脳裏に浮かぶプレーはいつだってアコスタのステップだった。
「ティム、きっと大丈夫」
アコスタは伝統的なバスケットを選んだ。高い場所にあるリングにぶつぶつ文句を言いながら、これからもバスケットを盛り上げるに違いない。
(了)